今回は、与謝野晶子さんの女性の自立に対する言葉です。
◆与謝野晶子の月刊誌『青踏せいとう』巻頭詩『そぞろごと』「一人称いちにんしょうにてのみ物書かばや。われは女おなごぞ。」
与謝野晶子(よさの あきこ)
1878-1942年 (享年63歳)
明治末の日本では、女性は良妻賢母を目指すのが女の道とされ、選挙権もなく、女性が政治活動をすれることは治安警察法で堅く禁止された行為とされる社会に生きていました。
現代以上に顕著な性差別や男尊女卑の文化が根強かった日本社会で、男性上位社会に抑圧された「女性の自我の解放」に向け、活動を開始した女性のひとりに与謝野晶子さんが居ました。
1911年(明治44年)秋に平塚らいてうさんが発行した史上初の女性文芸誌となる月刊誌『青踏』(Bluestocking-ブルーストッキング)にて「元始女性は太陽であった」から始まる創刊の辞を載せたことも有名です。
『青踏』の巻頭には、与謝野晶子さんの『そぞろごと』という詩が9ページにわたり掲載されました。次はその中の冒頭にあたる部分となります。
かく云えども人われを信ぜじ。
山は姑く眠りしのみ。
その昔に於て
山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。
人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
すべて眠りし女今ぞ目覚めて動くなる。
一人称にてのみ物書かばや。
われは女ぞ。
一人称にてのみ物書かばや。
われは、われは。
―与謝野晶子
抜粋:与謝野晶子『そぞろごと』
1970年代におきた女性解放運動(ウーマンリブ運動)が盛んだった時代にも与謝野晶子さんの『そぞろごと』は注目を浴びたようですが、そこからさらに50年、2020年の現代日本でも改めて、女性の生き方の多様性を求める動きが活発になっています。
時代がこれだけ進んでも、与謝野晶子さんの当時残した言葉の息吹や情熱が、各所にまだ強く生きていることを感じます。
◆与謝野晶子さんのことばと重なる私の人生
女性の神様と言われる重く、不動の「山」。その動かざる「山」、つまりは女性という立場に対する社会的価値観がとうとう動く日がやってくるのだ、という意味で、冒頭の「山の動く日来る。」はとても注目された出だしです。
けれども、私が個人として心に響いたのは、もう少し後のこの部分でした。
つまり、「自分の言葉で語り」「自分へ責任を帰属させ」「自分の思想を確立する」、
女であるという事に誇りをもって生きることを忘れるな、
という未来の女性に対する熱きエールとなっています。
私の時代には、当然のようにもうすでに女性の選挙権も参政権もあり、戦後生まれの私などは「女性と男性は平等である」という事を当然だと何も疑わずに思って成人し、大学を卒業して社会へ出ました。(中高を女子一貫校で育ったことが理由としてあったと思います)
ところが、社会に出て、結婚をし、子供を産み・・・と規定ルートの人生を歩んでいく中で、徐々にとても大きな数々の壁に当たることとなりました。
時代は進んで教育も進んでいっても、「なかなか動かないもの」というのが、そこには立ちはだかっていました。
◆与謝野晶子さんの言葉には「女性は男性にも国家にも依頼主義であってはならない」その意味を考えてみた
後に私は離婚して、子供と二人で生きて行くという人生の選択をするわけですが、その時になって、与謝野晶子さんが1918年に発表した『女子の徹底した独立』という論文をはじめとした母子保護論争にて
「婦人は男子にも国家にも寄りかかるべきではない」
という主張をしたことに対して、大きく共感を覚えました。
これは、単に日本では強者である男性を敵視することによる宣戦布告ではなく、女性が男性に対する「依存主義」をまず手放し、自立することによって、強者による経済的支配から逃れ、女性の社会的地位の向上や幸福力の獲得を実現するという事だけではなく、
男性側にとっても、妻子を完全に扶養しなければならないというプレッシャーから解放され、これまで手放さなくてはならなかった自分の人生の選択肢や可能性について改めて手にすることが出来るという意味もあります。
ブラック企業で命を削いで働きながら、妻子を支えるために働き続け、燃え尽きて命を落とした男性も、現代ではたくさんいるのです。
自分が人生の伴侶として選んだ大切な人が、生き生きと人生を楽しんでいる姿をお互いに共有できるという事が、男女にとってより幸福度の高い人生をもたらすのではないかと思っています。女性が開眼することは、男性の幸福にもつながるのだと思います。
それを明治時代に女性たちへ送っていた、与謝野晶子さんだったのでした。
一人称にてのみ物書かばや。
われは女ぞ。
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