高木ブー若い頃~志村けん追悼の今現在ドリフ寝る雷様伝説。嫁娘画像

今回は昭和のお茶の間と当時の子供たちにあたたかい笑いと豊かさの種を置いて行ってくれたザ・ドリフターズについてのお話と、グループを長期で大活躍させることに導いた第5の男・高木ブーさんについてガッツリ調べてみました。

◆2020年(年齢87歳)新型コロナで急逝したザ・ドリフターズメンバー志村けんの追悼番組で高木ブーが「志村は死なないの。ずっと生きている」とコメントした今現在

 

2020年、新型コロナの大流行によって急逝した志村けんさん(享年70歳)の早すぎる死を悼み、テレビ番組でも「志村けんさん追悼特別番組 46年間笑いをありがとう」が生放送されました。

 


『8時だヨ!全員集合』

 

2004年に72歳で他界されたリーダー・いかりや長介さんを除く、ザ・ドリフターズのメンバーである加藤茶さん、仲本工事さん、高木ブーさんは急遽番組に生出演し、かつての盟友の早すぎる死を悼みました。

 

ちょうどザ・ドリフターズ『8時だヨ!全員集合』全盛期に子供だった私は戦後生まれた団塊世代ゾーンの両親を持ち、両親が力を合わせて必死で生活を成り立たせようと質素倹約で働く中で、ザ・ドリフターズの笑いに支えられて育った世代です。

 


『8時だヨ!全員集合』

 

貧しくとも、家族みんなで笑いを共有するという豊かさで乗り越えたその時代は、当時子供だった私にとっては実際は雨漏りして屋根裏にネズミが走るような家に住んでいながらも

 

不思議と貧しさなどひとつも感じることはなく、これまで経験してきた各時代の中でも正直、最も豊かで幸福な時代だったと今でも思います。

 


『8時だヨ!全員集合』

 

しあわせな幼少期を
日本の子供たちにくれた
ザ・ドリフターズ

 

彼らが豊かさの種を撒いてくれた子供たちは「団塊ジュニア」「就職氷河期世代」をはじめとした現在の日本で最も過酷な世代と言われる大人になり、時代ごとに厳しい価値観の境目を最初に見る世代となりました。

 

 

とても過酷な世代。


でも思い出して!
私たちには困難を笑いで吹き飛ばす
ドリフの豊かさの種が撒かれているんだ!

 

 

そして、
コロナ時代の
変化に対しても
きっと最も耐性のある世代。

 

何故ならここまでずっと、「価値観の変化」を最も否応なしに受け入れなければならない世代だったから。

 

私たちは、子供時代に撒いて貰った豊かさの種を心に、このコロナ時代日本という国家がたくましく乗り越えていくことを託された世代なのかもしれないなと感じました。

 

 

いまこそ
開花させようぞ。

 

志村けんさんの追悼番組で加藤茶さんは、ザ・ドリフターズを天国できっと再結成しようという約束の言葉を弔辞の言葉としています。

 

5人がそっちに全員集合したら、そっちのお客さんを大爆笑させようぜ。約束だぞ
引用元:日刊スポーツ

 

その言葉に、仲本工事さんも全く同じ気持ちであることを述べていました。

そして、しばらくの沈黙の後に高木ブーさんが加藤茶さんに促されて言葉を心から絞り出します。

 

 

志村は死なないの
ずっと生きている。

 

もう、決めたの。決めました。46年…ドリフターズとして志村と僕らは一緒にやってきた人間。普通の、一般の方と違うの、僕らは…ね。
だから、志村は死なないの。ずっと生きている。
引用元:日刊スポーツ

 

 

私たちの中で志村けんさんの面影も、ザ・ドリフターズに蒔かれた豊かさの種もずっと生きています。きっとコロナの後の世界でも。

 

 

◆新型コロナで急逝した志村けんの追悼番組として、ドリフ主演作である未DVD化の貴重映画『超能力だよ全員集合!!』『ザ・ドリフターズのカモだ!!御用だ!!』放映!なつかしの高木ブーさんの姿も

 

ザ・ドリフターズの志村けんさんの追悼の番組として、wowwowではザ・ドリフターズ主演映画を放映するようです。

 

 

超能力をテーマにした『超能力だよ全員集合!!』、東京下町に住む父子を描く『ザ・ドリフターズの極楽はどこだ!!』『ザ・ドリフターズのカモだ!!御用だ!!』、不景気で失業した広告業者のコンビが登場する『正義だ!味方だ!全員集合!!』も放映しました。

 

 

懐かしい、昭和のザ・ドリフターズの元気な姿がひさびさに放送されました。

 

 

そうして、昭和という時代の歴史に大きな存在感とその名前を深く刻んだザ・ドリフターズでしたが、ザ・ドリフターズがグループとしてここまで大きな功績を残すことができたのは、

 

才能あふれる各人の個性的なキャラクターも確かにありましたが、それぞれの個性が衝突し合って争いになったり足を引っ張り合う関係となるのことを仲間をいつも信じることで阻止し、のびのび表へ出ていくことを無言で後押しした高木ブーさんの存在が大きかったのではないか、私個人的には思っています。

 

◆1964年(年齢31歳)音楽ミュージックバンド「新生ザ・ドリフターズ」の初期グループメンバーとして若い頃の高木ブーが加入することになるまでの経緯

 

まずは高木ブーさんがザ・ドリフターズのメンバーになるまでの経緯について調べていきたいと思います。

 


1964年頃の前身バンド

 

高木ブーさんがザ・ドリフターズに入った1964年当時には、「お笑い芸人」としての採用ではなく、音楽バンドとしてのザ・ドリフターズのピアニスト(ギターリストという話もあり)の欠員補充としての採用でした。加藤茶さんはその当時のお話をしています。

 


1965年頃

 

前のドリフターズが解散になって、俺と長さんが残って。メンバーを探して見に行ったら、ギターを弾いて歌ってた仲本がいて、その横にブーたんがいて。あれ、まん丸くてブタみたいで面白いじゃないって
引用元:スポニチ

 

 

●1962年~いかりや長介(ベース)
●1962年~加藤茶(ドラム)
●1964年~荒井注(キーボード)
●1964年~高木ブー(ギター)
●1965年~仲本工事(ギター)
●1974年~志村けん(ギター)

 

初期の「ザ・ドリフターズ」はコントグループではなく、完全に音楽グループだったんですね。

 

 

◆1933年 第二次世界大戦以前の東京豊島区巣鴨で高木ブー誕生!時代背景は?

 

高木ブーさんは第二次世界大戦前の1933年(昭和8年)東京府東京市豊島区巣鴨(現在の東京都豊島区巣鴨)で誕生しています。

 

1933年というと、日本ではプロレタリア文学の代表作でもある「蟹工船」で有名な作家小林多喜二氏が治安維持法違反容疑で逮捕され同年に拷問により無くなっている年であり、一方で「東京音頭」が大流行しています。

 

 

ザ・ドリフターズのメンバーの中でも特に奔放で自由な印象の強い高木ブーさんの生まれた時代の背景は、意外なことにその印象とはその逆で、思想に対する支配者からの制限や関与が強く、とても争いの多い厳しい時代だったと言えそうです。

 

「自由」というものが
日本にも無かった時代。

 

◆1945年(年齢12歳)東京大空襲で自宅全焼。終戦を迎えた若い頃の高木ブーの生い立ちや両親・兄弟、本名・身長など基本プロフィール

高木ブーさんのホンワカした柔らかな印象からは想像もしなかったことでしたが、調べてみると日本が終戦を迎えた1945年、高木ブーさんの年齢はなんと12歳

 

小学校6年生くらいのもう人間として色々な考えを持てる年齢に達している少年時代でした。12歳の時に高木ブーさん一家は自宅の豊島区の家を東京大空襲によって全焼させられ、失っています。

 

 

その時の
地獄のような光景は

大人になった後も忘れられない

 

高木ブーさんにとっては最も過酷な時代が少年時代だったという事になります。東京大空襲の時のお話もされています。

 

私がのんきに『8時だヨ!全員集合』を見ていたような年齢の時に、高木ブーさんは少年時代を戦争に奪われ、国の存続家族、自分自身の生死をも脅かされる危機に直面していたという事です。

 

 

高木ブーさんは6兄弟の末っ子として生まれ、3人の兄と2人の姉がいたようです。父親はサラリーマンでとてもまじめな人だったようです。

一番上のお兄さんは高木ブーさんよりも19歳も年上、すぐ上の兄も8歳も年上だったという事ですから、終戦の時には高木ブーさんを除く兄弟は随分大人でした。

 

高木ブーさん自身も末子だった自分自身について「家族全員から甘やかされて育った」と語っています。

 

●名前:高木ブー
●旧芸名:高木 智之
●本名:高木 友之助(たかぎ とものすけ)
●出身地: 東京府東京市豊島区(現:東京都豊島区)
●育ち:千葉県東葛飾郡柏町(現:千葉県柏市)
身長:160㎝
血液型:O型

 

高木ブーさんが生きた少年時代は日本が最も貧しい食糧難の時代だったことから、身長にもそれが影響したことだろうと思われます。

 

 

◆1945-1960年(年齢27歳)まで暮らした千葉県柏市!出身小学校・中学校・高校は?昔の高木ブーは痩せていた?大学生時代にプロミュージシャンへ!

 

東京大空襲で自宅を失った高木ブーさんの一家は母親の郷土である千葉県東葛飾郡柏町篠籠田の地(現:千葉県柏市明原2丁目)に一家で移り住み、育ちます。

 

 

高木ブーさんが学生時代の若い頃のお話をしていたインタビューがありました。

 

戦争があったので幼少期の思い出は東京大空襲ですべて焼失。小3で戦争が始まり、中1で終戦を迎えました。

千葉の柏に母の実家がありましたが、そこに疎開した途端に終戦。でも帰りたい家は全焼してないですし、中学校が再開する頃は戦後混乱期で、千葉の柏から、東京の日暮里まで汽車に乗って通っていました。
引用元:子供の習い事.net

 

余談ですが、高木ブーさんの中学校時代は時代背景もあったからか、40㎏というとてもスリムな体型で痩せていたそうです。

 

 

戦後は御兄弟の年齢が離れていたことから一家の経済が安定していたことが伺われます。高木ブーさんはその後大学まで進学することができており、若い時代の体格から言っても食べ物に困った印象はありません。

 

そうしたことを考えると、少年時代は大変過酷だったものの、比較的戦後は恵まれた環境だったと言えるのかもしれません。

 

●巣鴨町立仰高尋常小学校
●私立京実中学校
●私立京北高校
●中央大学経済学部

 

高校時代の高木ブーさんは2年間ボクシングをやっていた時期があり、ボクシングでインターハイに出場した経験もあります。

 

 

高木ブーさんのドリフ時代の、凛々しいボクシングコントもありましたw

 

大学時代には高木ブーさんはハワイアンバンド「ルナハワイアン」に参加しており、アルバイトもクラブやダンスホールで演奏をすることで大学生としては破格のギャラを貰っていたというお話がありました。

 

運のいいことに、高木ブーさんの大学生時代の日本では空前のハワイアンブームが訪れていたそうです。色々な意味で縁の殆どが向こうからやってくる強運体質と言えます。

 

大学時代には
プロバンドマンへ

 

 

この楽器との出会いも、実は高木ブーさんの柏在住時代からの出来事で起こっています。物心ついた頃からすぐ上の兄が好きで聴いていたジャズのレコードをよく聴いいて暮らしていたことから、音楽への興味を広げていた高木ブーさんがいました。

 

 

◆1948年(年齢15歳)柏市在住時代に高木ブーは実の兄貴からウクレレを買って貰う

 

高木ブーさんが15歳の時に兄からウクレレを買って貰ったことが一つの人生の転機となっています。お年玉としてウクレレを買ってくれたそうです。

 

この話は別の場面では高木ブーさん自身のお話の中で「誕生日」となっていることから、「兄にウクレレを買って貰った」ということ以外の情報はどうでもいいことのようです(笑)

 

 

いろいろザックリしてるw

 

そして、高校時代は高木ブーさんの周りに楽器を持っている友人がたまたま6人も揃っていたことからバンドを結成し、柏の夏祭りで初めて人前で演奏することになりました。

 

そのころ千葉の柏にいたんだけど、増田進って人から「ハワイアンやろう」って誘われたの。それで初めて、ウクレレを弾いた。
引用元:文春オンライン

 

 

ウクレレの演奏技術についてはに貰ってからというもの、高木ブーさんは夢中で独学で学んでいったようです。当時は本も楽譜もなく、レコードを聴きながら音楽を覚えて弾いていくことを繰り返していたというお話がありました。

 

 

◆1956年(年齢23歳)中央大学経済学部卒業後、父親のあっせんの東京ガスの採用内定を蹴って高木ブーはプロのミュージシャンへ。恋多き男・高木智之女性と3股交際

 

中央大学経済学部大学卒業後の高木ブーさんは父親のコネで東京ガスの社員としての入社内定を得ていましたが、それを辞退プロミュージシャンとしての人生を選びます。

 

 

大学卒業年にあたる1955年に結成していた「高木智之とハロナ・セレナーダス」では当時、高木智之さんとして活動していた高木ブーさんはバンドのリーダーであり、ボーカルとギターを担当しています。

 

まさかの
リーダーだった(笑)

 

gira2
 

ドリフ時代しか知らない者としては意外ですw

 

ちょっとしたクラブはみんな、米軍が接収してる。クラブには将校クラブ、下士官クラブ、兵隊さんのクラブがあって、音楽のジャンルも違うの。兵隊さんはやっぱりカントリー&ウエスタンなんですよ。下士官クラブになるとジャズっぽくなってきて、将校クラブにかろうじてハワイアンを聴きたがる人がいた。だから音楽での仕事には困らなかったですよ。僕らは一生バンドで食っていけると思ってた。
引用元:文春オンライン

 

その他にも、高木智之さんの所属するバンドはたくさん存在したようです。

 

・「高木智之とハロナ・リズム・コーラス」
・「ニュー・フレッシュメン」
・「ジェリー藤尾とパップ・コーンズ」
・「ロジェ滋野とシャドーズ」

 


1962年「パップ・コーンズ」

 

「パップ・コーンズ」で
仲本工事に出会う。

 

それらのバンドでは、ジャズ喫茶や沖縄・フィリピンなどの米軍キャンプまで遠征して演奏をしていたような、それぞれかなりの活躍度のあるバンドだったようです。

 

この時代に、まさかの出来事として今でも語られていることは、高木ブーさんは大モテだったという考えてもみなかったエピソードを持っていました。

 

 

まさかのモテ期が
2度もあったらしい。

 

高木ブーさんが若い頃ミュージシャンとして活躍していたことが理由かと思うと、どうやら高校時代からモテモテだったようです。高校時代の最初のモテ期は高木ブーさんの自著『第5の男』の中でも『第1次内閣』と呼ばれていたようです。

 

 

引き続き高木ブーさんの第二次モテ期であるミュージシャン時代『第2次内閣』でも恩師の姪御さんで厳格な家庭の箱入り娘・Y子さんや、近所の超絶美人の玉ちゃんなどと浮名を流した「ザ・モテ男」だったそうです。

 

とはいえ、
「恋多き純情青年だった」
ようです。

 

◆1961年2月(年齢27歳)モテモテ時代の3股交際の末、高木ブーはその中の女性のひとりだった嫁・福本喜代子さんと結婚!馴れ初めは?子供は電通に勤めた娘のカオル・タカギさん

 

20代という若い頃の高木ブーさんは女性と純情3股交際をしていたそうで、そのうちの1人の女性だった福本喜代子さんと1961年2月に結婚してお嫁さんにしています。馴れ初めとなったのはダンスパーティだったそうです。ステキw

 

 

また、高木ブーさんは過去の交際相手の写真を年代順にアルバム整理をしてあるというマメな一面もありました。そのマメさで愛妻・福本喜代子さんの洋裁の仕事を手伝っていたという話があり、ボタン付けや簡単な裁縫は得意である高木ブーさんです。

 

高木ブーさんと嫁の福本喜代子さんの間には1963年にかおるさんという一人娘が産まれています。

 


画像:高木ブー公式Instagram

 

高木ブーさんは若い頃から娘のかおるさんの事を宝物のように大事にして育て上げました。

 

 

◆1994年3月(年齢61歳)嫁・福本喜代子が脳腫瘍で死去。糟糠の妻を亡くした悲しみから高木ブーは娘・かおるの結婚相手に条件提示!

 

高木ブーさんはザ・ドリフターズの中でも唯一離婚も再婚もなく、最初に結婚した妻と最期まで添い遂げた愛妻家でした。けれども、1944年3月には愛妻の喜代子さんを脳腫瘍で失っています。

 

 

無名時代に家庭を支えてくれた
妻への感謝でいっぱいだったそう。

 

そんな糟糠の妻である福本喜代子さんを亡くした時の高木ブーさんの悲嘆はとても激しく、高木ブーさんはそれ以来、妻を助けてくれなかった神様を一切信じることができなくなったと自伝の『第5の男 -どこにでもいる僕-』で語っています。

 

神さまなんか俺は信じない。

 

最も神さまと交信できそうな存在である高木ブーさんからこのような言葉が出てくるということ自体に若い頃に妻を亡くした悲しみの果てしない大きさを感じてしまいます。

 

また、愛妻を亡くされてからは実の娘のかおるさんがお嫁に行って出ていくことに耐えられないという事で、娘の結婚相手に対する条件も掲げていたようです。(一度、相手に「バカヤロウ」と言って破談になったことがあるらしいw)

 

娘の結婚相手は自分と一緒に住んでくれる男性で、転勤などのない職業であることが絶対条件だった
引用元:wikipedia

 


最愛のひとり娘・かおるさんと

 

孝行娘の高木ブーさんの娘・かおるさんは父親の望み通りの結婚相手を見つけ、実際に高木ブーさんは娘一家との三世代同居を実現させています。

 

 

◆2004年(年齢71歳)高木ブーの娘・かおるの息子(孫)も誕生!

 

さらに、今現在では高木ブーさんには娘のかおるさんの息子である男の子のも誕生しています。

 


お孫さんと一緒に雷様

 

高木ブーさんのお孫さんは、2004年8月生まれで、2020年で16歳になる年齢でだそうです。高木ブーさんの娘さんのかおるさんも1963年に生まれていますので、2020年現在57歳という事になります。

 

今では長い時間が経ってしまいましたが、高木ブーさんの長女が生まれて間もなく、大きな新しい転機が高木ブーさんに訪れます。

 

 

◆1963年(年齢30歳)三代目リーダー・いかりや長介から見た目でスカウト!「ミルク談義」を経てグループへ加入!

 

高木ブーさんに娘さんが誕生した頃、横浜にあるジャズ喫茶「ピーナッツ」高木ブーさん率いるバンドが演奏をしていた時にザ・ドリフターズの三代目リーダーだったいかりや長介さんに出会います。

 

 

そのころのジャズ喫茶は、30分交代で2つのバンドが出るんですよ。僕らのバンドが出たとき、その相手がドリフだったことがあったんです。
引用元:文春オンライン

 

ザ・ドリフターズは当時、メンバーの小野ヤスシさん、ジャイアント吉田さんら脱退する事になり、活動継続に困っていました。当時は15日前に言えばバンドを抜けられるというルールがあったようですが、その先の仕事も決まっていたことから穴を埋められる人員を早急に探していたようです。

 

 

いかりや長介から
スカウトされた!

 

高木ブーさんとしては自分が率いるバンドを持っていた為、当初ザ・ドリフターズへの加入には迷いましたが、結婚して妻・喜代子さんは内職で家庭を支えている状況が続いており、生まれたばかりの長女・かおるさんもいました。

 

より給料や条件のいいところへと、バンドを移籍するのはこの時代も珍しくない話だったため、高木ブーさんも条件次第という気持ちだったでしょう。

 

 

グループへの加入の話し合いが進んでいくといかりや長介さんから

「お宅は母乳ですか?」と問われた高木ブーさんは

「うちはミルクで、結構ミルク代がかかるんです」と現在の報酬よりもベースアップしていきたい気持ちを暗に織り交ぜた話し方をしたところ、それを酌んで、当時のお金で5000円アップという破格の条件での移籍となったそうです。

この時の事を高木ブーさんが後で出版した著書で『ミルク談義』と表現しています。

 

 

30歳の時に誘いを受けてドリフターズの一員になりました。
引用元:広報かしわ

 

さらに、小山威さんの後釜ギターとして仲本工事さんをザ・ドリフターズに誘ったのは高木ブーさんでした。

 

 

後にいかりや長介さんは若い頃の高木ブーさんのスカウト理由「見てくれのオモシロさから」と自伝『だめだこりゃ』でも紹介されています。

 

太っている外見がコミックバンドに向いていると思ってスカウトした
引用元:https://newsee-media.com/takagi-boo

 

ですから、表向きはそういうことになっていますが、一方で、高木ブーさんについて「ドリフの中では最も音楽性が高い」という評価もいかりや長介さんはしています。

 

 

また、当時はドリフ内で子供のいるメンバーがいかりや長介さんと高木ブーさんだけだったこともあり、お互い子供を大事に思う気持ちも、育てていくプレッシャーや大変な想いも共有できたようです。

 

 

◆ザ・ドリフターズメンバーの若い頃ついた芸名の由来は事務所の先輩・ハナ肇? いかりや長介・高木ブー・加藤茶・仲本工事・荒井注・志村けん 画像

 

高木ブーさんはザ・ドリフターズに加入するまでは前述のように高木智之さんという芸名で活動をしていました。けれども肥満気味の体型からグループ内では若い頃から「ブーちゃん」と呼ばれており、それがきっかけで「高木ブー」という芸名になっていました。

 

 

芸名は、ハナ肇さんがこじつけで勝手につけたんです。メンバーみんなそうだよ。
引用元:文春オンライン

 

メンバーの芸名は所属事務所である渡辺プロの先輩のハナ肇さんが付けていたようです。宴会の席で適当につけられ、勝手に決定したとか・・・。

 

 

「水にちなんだ名前をもつ芸能人は売れる」という事からついた各人の芸名。

 

いかりや長介
→碇矢長一が、響きがいいから「長介」
加藤茶
→もともと「かとちゃん」と呼ばれていたことから、水にちなんだ名前が出世すると言って「茶」になった
仲本工事
→よくケガしてたから工事中の「工事」。工事は、水たくさん使う意味もあり
荒井注
→サンズイがついていることから

 

 

ブーと決まった瞬間、これで俺は一生ブーかと思うと目の前が真っ暗になった
引用元:https://monkeybox.hatenadiary.org/

 

1933年生まれの高木ブーさんと1930年生まれのハナ肇さんというと、事務所の先輩後輩とはいえ、たった3歳差でありながらもこれだけの力の差があるという事が昭和の上下関係の厳しさを象徴するものでもあると言えそうです。

 

 

◆1974年ザ・ドリフターズ脱退の荒井注の芸名も「水」にちなんだ「サンズイ」からハナ肇が命名!脱退理由はいかりや長介との対立とギャラの配分 画像

 

1974年3月にザ・ドリフターズを脱退した荒井注さんは元々はピアノを担当しており、グループ内での呼び名は「ハゲ」「ハゲ注」だったそうです。

 

 

This is a pen!」「何だ、バカヤロウ!」、「文句あるか!」、「何見てんだよ!」は流行語となり、逆ギレ芸の先駆けとしてドリフターズでも人気を得ましたが、

 

「体力の限界」「芸能界を引退する」ということを理由に脱退しています。いかりや長介さんのワンマンな状況とギャラの配分に不満が募った末の脱退とも言われています。引退するはずが半年後には芸能活動を復帰した荒井注さんに対し、グループメンバーは和解に3年程かかったと言われています。

 

 

◆荒井注の脱退後にザ・ドリフターズへ加入した、志村けんの芸名だけは実の父親が由来 画像

 

余談になりますが、ザ・ドリフターズとしてはもう少し先にメンバー加入する志村けんさんだけは、唯一、ハナ肇さんからの命名ではない芸名を持っています。

志村けんさんの芸名の由来は、中学生の時に交通事故を原因とした痴呆症を患い、亡くなってしまった父親の憲司(けんじ)さんの名前が由来となっているそうです。

 

 

志村けんの芸名の由来は
父親の名前から

 

後にブレイクすることになった志村けんさん扮する「変なおじさん」は実の父親をモデルにしたキャラクターだったという話があり、コミカルな「笑い」の表面には出て来ない志村けんさんという人間の愛情深い部分を感じさせます。

 

 

◆1966年7月(年齢33歳)高木ブーはドリフターズとして若い頃にザ・ビートルズの日本公演の前座を務める

 

1966年には世界的アイドルグループとなていた「THE BEATLES(ザ・ビートルズ)」が日本に来日します。

 

 

日本でもその当時のビートルズは大変人気グループで、熱狂的ファンが3日間計5回行われた武道館コンサートの公演へ押し寄せました。

 

 

日本を代表するミュージシャンも出演しており、尾藤イサオさん、内田裕也さん、望月浩さん、桜井五郎さん、ジャッキー吉川とブルーコメッツブルー・ジーンズ、そして、ザ・ドリフターズが出演しています。

 

 

高木ブーさんの
機敏な動きに驚き(笑)

 

この当時の事を高木ブーさんもとても強く記憶しているようです。

 

ビートルズの前座は最初、30分の予定がどんどん削られて1分の持ち時間。武道館を埋め尽くすお客さんが待ち焦がれているビートルズの前に、僕らが表れて皆ズッコケていました(笑)。
引用元:子供の習い事.net

 

コミックバンドらしく、演奏の最後はズッコケで舞台を終わっているのが印象的でした。

 

 

この時期には今後テレビ主導の時代が到来することをいかりや長介さんは予測しており、ザ・ドリフターズは時代の流れに対する先見の明から、音楽性よりも笑いを重視するグループになっていった高木ブーさんは語っています。

 

 

◆1969年10月(年齢36歳)怪物お化け番組TBS『8時だヨ!全員集合』スタート!

 

1969年10月には伝説のテレビ番組『8時だヨ!全員集合』のTBS放送がスタートしています。厳密には2期にわかれているようですが、全803回で、その大半が公開生放送、1985年9月28日に幕を閉じるまでに通算15年6か月の歴史をつくりました。

 

 

●第一期:1969年10月4日~1971年3月27日
●第二期:1971年10月2日~1985年9月28日まで

 

団塊ジュニア世代は第二期から視聴していたはずです。

 

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毎週、月曜日は欽ドン、土曜日はドリフでしたね

 

◆1970年(年齢37歳)歌謡曲「ドリフのズンドコ節」の大ヒットでバンドが「第12回日本レコード大賞大衆賞」「第1回日本歌謡大賞放送音楽賞」受賞

 

ザ・ドリフターズの若い頃の音楽バンドとしての活動の全盛期はビートルズの前座を務めた1966年から1970年頃までだったようです。1970年代には目標の先輩バンドだった「ハナ肇とクレージーキャッツ」も追い抜き、ザ・ドリフターズが人気を集める時代が始まります。

 

 

1970年には「ドリフのズンドコ節」が大ヒット、「第12回日本レコード大賞大衆賞」「第1回日本歌謡大賞放送音楽賞」をそれぞれ受賞しています。

 

 

高木ブーさんの歌唱力もビックリですw

昭和のあったかーい空気にとても懐かしい豊かな時代を思い出します。

 

 

この時代のユーモアには、平成に蔓延した誰かを斜め上からの意地悪で見るような感性が無くて、泥臭く分かりやすい、ただただ愛がいっぱいの笑いだったなあという印象です。

 

 

◆1974年4月(年齢40歳)ザ・ドリフターズの見習い付き人だった志村けんが荒井注の交替として正式メンバーとしてコミックバンドグループに加入!『8時だヨ!全員集合』黄金期へ

 

1974年には志村けんさんがザ・ドリフターズに正式加入し、役者が揃うことになりました。

 

 

志村けんさんは元々、高校卒業後からバンド時代のザ・ドリフターズのバンドボーイを務めており、時には加藤茶さんの付き人であったり、お笑いコンビ「マックボンボン」なども結成して出戻ったりと活動を開始していました。

 

 

前述のように、最初は1974年3月にザ・ドリフターズを脱退した荒井注さんの穴埋め要員でしたが、実際は志村けんさんは1973年から見習いとして舞台にも出ており、1974年4月1日付で「ザ・ドリフターズの正式メンバー」となっています。

 

完全に入れ替わりという事ではなく、少しの期間だけ、荒井注さんと志村けんさんも番組を共に盛り上げる期間がありました。

 

 

ちなみに『8時だヨ!全員集合』の視聴率の全盛期は1973年で、最高視聴率は50.5%だったそうです。

 

コミックバンドへ。

 

音楽活動からお笑いにシフトしてコントを作っていくようになります。

 

 

志村けんさんが加入した後もグループは音楽活動を続けており、初期はキーボード、のちにギターを弾いていました。また、三味線の腕もプロ並みだという意外な情報もありました。

 

ドリフには
バンドが終わった瞬間があった。

 

 

志村は、ドリフターズが“音楽活動を終えた瞬間”を振り返る。
いかりやさんが“加藤、もっと後ノリでやらないか?”というと、加藤さんは(キレ気味で)“やってみろよ!”…で、そこでもう、バンド終わりだもんな」。

加藤「だってあの人、いうばっかりで、自分はやらないんだよ。ベースだって、大した弾き手じゃないんだから」と毒を吐き、仲本高木も大爆笑だった。
引用元:スポニチ

 

 

しかし、そのいかりや長介さんのリーダーの鮮やかな采配がその後のグループの更なる大人気と国民的グループとしての飛躍の道を切り開くことになりました。

 

 

◆ザ・ドリフターズ新規グループメンバー・志村けん加入後にTBS『8時だヨ!全員集合』無敵の生放送公開バラエティとして高木ブーも子供たちに大人気!

 

志村けんさんが加入後のザ・ドリフターズはTBS黄金期、『8時だヨ!全員集合』の黄金期を形成することになります。

 

 

私が番組を見るようになったころにはザ・ドリフターズはもう音楽バンドという面影はあまりなく、完全にお笑いグループとして成立していました。

 

けれども、元々若い頃からミュージシャンとしての技術がグループ内でもピカイチだった高木ブーさんの立ち位置となると、コントや笑いの方向へシフトしていくにつれ、なかなかこれといった特別なキャラクターを形成できずにいた時間が長く続いたようです。

 

 

◆グループにこれまでにないバランスを築いた「第5の男」高木ブーの「許す」威力と象徴的キャラクター!鬼姿で寝る「雷様」

 

『8時だヨ!全員集合』を中心としたコント内での高木ブーさんの出番は、あまり多くなく、徐々に「何もしない、何もできない」「出ない、喋らない、笑わせない」といった音楽活動の時とは一転して、どちらかというと無能キャラとして扱われることが多くなっていきます。

 

 

ところが
どうやらそれは
仮の姿だったらしい。

 

当時テレビを見ていた子供たちも若い頃の高木ブーさんの「活躍のなさ」をむしろグループの中での特別の個性として受け取っていました。

 

 

そんな立ち位置だった自分について、高木ブーさん自身もこのように表現しています。

 

第5の男。

ザ・ドリフターズで最後の5番目の男という意味のようです。

 

 

人には役割がある。

 

ドリフターズでの僕のポジションは「第5の男」。僕自身それ以上を望まなかったし、5番目の僕がいるからこそ他の4人が安心できる面があるはず、と考えてきた。どこにでもいるような人間、でも、どこの世界でもしんがりを務める人物。それが「高木ブー」なのではないかなぁ?
引用元:子供の習い事.net

 

他の4人を安心させ
生かすために自分は居る

 

当時のザ・ドリフターズは国民的人気を獲得していく半面、とても多忙な日々になっていきます。

 

 

◆高木ブー若い時からの定番の鬼姿の「寝てる雷様」キャラは『8時だヨ!全員集合』で多忙な時期に会議で毎回寝ていたことがルーツ

 

『8時だヨ!全員集合』ひとつとっても、週1回の公開生放送の1時間弱の番組では最初の20分ほどのコント、中間の聖歌隊やゲストの歌があって、後半にゲストと組んだコントが4本もありました。

 

 

毎週、
公開生放送。

 

ずーっと劇団員が新しい演目を1発勝負で毎週毎週公演しているようなものです。

 

日本全国のお茶の間を笑いで包んでいたあの時代は、メンバー全員がギリギリの精神的・肉体的限界と闘っていた時代だったようです。毎週木曜日に土曜の公開生放送の舞台の打ち合わせがあり、いつもピリピリしていたそうです。

 

gira2
 

子供だったので全然知りませんでしたw

 

全員が限界と闘っていた。

 

一週間に一回それを考えてたんだから、よくやれたなと思うよ。
引用元:介護ポストセブン

 

当時を振り返り、現在、高木ブーさん自身もしみじみ語っています。

 

 

長時間に及ぶ会議の時にグループのリーダーであるいかりや長介さんのOKが出るまでのアイデアを出していく深夜までの沈黙の時間には、高木ブーさんもいかりや長介さんには口出しできない為、会議室の平らな場所でいつも寝ていたそうです。

 

毎週毎週
深夜12:00まで続いていたらしい。

 

 

それを加藤茶さんが「ブーさん、また寝てるよ」というのがザ・ドリフターズのお約束の定番となりました。

 

そんな一見、完全に戦力外のような若い頃の高木ブーさんでしたが、多様な個性が集まるピリピリとした空気の中では高木ブーさんのような存在が個々の緊張感をほぐし、皆を「許されている気持ち」にさせたのではないかと思います。

 

一見、
支配者のように見える
いかりや長介も

心の拠り所は高木ブーだった。

 

 

グループを仕切っていたいかりや長介さんも、若い頃から高木ブーさんにだけは弱音や愚痴をこぼすシーンがあったようです。グループ内でも年齢が最も近い高木ブーさんとは子供がいる背景が一緒であることから、境遇や立場を理解できる相手としていかりや長介さんも心がホッとする存在だったのかもしれません。

 

 

1984年にリハーサル中に高木ブーさんが両足のアキレス腱を断裂し、約4ヵ月の間活動を離脱しなければならなかった際には、脱退を本気で考えていた高木ブーさんを粘り強く説得して復帰させたのも他でもないいかりや長介さんでした。

 

年齢差の壁を越えて
一体感を作っていたのは
高木ブーかもしれない。

 

また、最年長のいかりや長介さんと2歳下の高木ブーさん、それよりも10歳も年下の加藤茶さん、ほぼ同年代で加藤さんより2歳年上のの仲本工事さん、唯一の戦後生まれで最年少の志村けんさんに至っては、いかりや長介さんとの年齢差は19歳とキャラクターだけでなくかなり年齢差もあるグループでした。

 

 

ドリフターズは
みんな仲が良かった。

 

高木ブーさんが加入する前のザ・ドリフターズはメンバーの対立や入れ替わりが多く起こり、いかりや長介さんも実際、3代目のリーダーでした。けれども、荒井注さんの脱退はあったものの、高木ブーさんが加入以降は、比較的安定したバランスを維持していました。

 

 

高木ブー守護神説(笑)

 

 

最年少の志村けんも
高木ブーをかばって守る。

 

ザ・ドリフターズでその後、スターへ駆け上がっていった17歳年下の志村けんさんも、よく高木ブーさんのチョンボを見かねて、若い頃から代わりにいかりや長介さんから叱られてくれていたようです。皆が絶対に守らなくてはいけない存在である高木ブーさんです(笑)

 

 

バランスが取れたいいグループだったと思う。たいへんだったけど、みんな仲が良かったし、みんな仕事を楽しんでた。あんなに手ごたえがあってやりがいがある仕事は、なかなかやらせてもらえないもんね。
引用元:介護ポストセブン

 

高木ブーさんも当時の風景を瞼に浮かべて、かけがえのない時間の思い出に胸を熱くされているようでした。

 

 

◆昔からお決まりの高木ブー鬼姿の「寝てた雷様」が番組『ドリフ大爆笑』でキャラ確立。豆まきでも寝た!?寝る病気説も浮上するほど

 

毎週土曜日の『8時だヨ!全員集合』の人気から、それとは別枠での放送が始まった不定期の『ドリフ大爆笑』の放送では、いつの頃からか、の恰好をしたいかりや長介さん、仲本工事さん、高木ブーさんによる雷様コントが定番化していきました。

 

 

箸休め的なw

 

たくさんの回数を見た記憶があるのに、ほとんど内容として高木ブーさんが途中から寝ていた事しか記憶にない(笑)というのも凄いことですが、このコントだけは唯一高木ブーさんがメインのコントとして用意されたものだったようです。

 

そう言われれば(笑)

 

 

なかなか、あのだるい時間にあれほどの長すぎる尺を使えるテレビ番組も、今後成立することはきっとないでしょうから、今になって思うと「時代の豊かさの象徴」のようなコントでもありました。

 

ほぼセリフなしの回も(笑)

 

 

パターンとしてはいかりや長介さんのちょっと説教っぽい話や、こむつかしい話になると、高木ブーさんがつまらなそうな顔をしてすぐ寝る、というマイウェイを貫き、

 

正しさを強要してくる
ツマラナさ
ツマラナイものは悪

 

という高木ブーさん独自の哲学を子供たちに刷り込むことになった気がします。

 

リーダー・いかりや長介さんの話をガン無視して寝られるのはグループ内でも高木ブーさんしか許されなかったでしょうから、実はあの役は高木ブーさんしかできない大役でもありました。

 

 

権力者をとことん
ガン無視する大役。

 

子供たちですら、ダメな大人の高木ブーさんの存在によって、知らず知らずのうちにどこか許された気持ちになり、きっと目の前のちょっとした現実の困難も「どってことない」と思えていた気がします。

 

豆まきでも寝た!爆

 

 

ここまでになると、本当に一流芸としか言いようがありません(笑)。

 

調べてみると、これは昔、病気なのではないか?と言われたこともあったようで、高木ブーさんが肥満を原因として患ってた「ナルコレプシー(居眠り病)」によるものと言われていたこともあったようです。

 

過去には
居眠りによって
スポンサーを失う場面も。

 

出演者やスポンサー、テレビ局スタッフを集めた重要な会議があった。そして大事な局面の最中、高木は大いびきで寝てしまったことから、激怒したスポンサーが番組から降りてしまい、たった2か月で番組終了という事件もあった。
引用元:https://mnsatlas.com/

 

こんな話もあるほどの「大問題」であった高木ブーさんの居眠りではありましたが、

これは私の実体験による経験談ですけれども、「眠る」という事には「生きることで得た精神的ダメージ」「生きやすくするようにうまく調整する仕組み」がある気がしています。

 

 

高木ブーさんには前述のように幼少期に東京大空襲に遭うなど、鮮烈に残る心象風景があり、それ以外にも愛する妻との別れも経験しています。それらの感情記憶を時間をかけて情報整理する機能や、

 

あの光景を思えば、全然目の前の出来事など重大問題などではない「くだらないこと」の数々だという想いから、「寝る」ほうが価値的という本能的な部分が機能していたという事かもしれません。

 

第5の男で
哲学者・高木ブー

 

 

高木ブーさんの「寝る」芸はじわじわ人気を得て、その後も長年愛され続けてきています。

 

 

◆1989年12月(年齢56歳)筋肉少女帯大槻ケンヂの若い頃の問題作であるヒット曲『元祖高木ブー伝説』を昔本人が許す神対応 画像

 

1989年になると、ザ・ドリフターズを見て育った子供世代である大槻ケンヂさん率いる筋肉少女帯『高木ブー伝説』という高木ブーさんの名前を名指しにした曲を発表し、大問題となりました。

 

 

この曲の中の歌詞では完全にザ・ドリフターズのコントの中で演じていた高木ブーさんのキャラクターとしての「ダメさ」「無力さ」「惨めさ」のようなものを名指しで挙げ、失恋男の憂い・無念を歌いあげているものでした。

 


1988年筋肉少女帯

 

あまりにも露骨な歌詞であったことや、コント上で演じていたに過ぎない高木ブーさんのキャラクターを本人に対する名指しの人格批判にも見えるような形で作品にしていたことでドリフターズの所属事務所側や、いかりや長介さんまでもが激しい反発と抗議をするという状況にまで発展していました。

 

しかし、なんと当の本人である高木ブーさん自身がその行為を許すという展開となりました。

 

 

若い奴が馬鹿やって頑張ってるんだから許してあげようよ
引用元:wikipedia

 

この時に、もし大問題となっていたとすれば、筋肉少女帯はもちろん大槻ケンヂさんという人が活躍する未来は絶たれていた事でしょう。

 

その後、大槻ケンヂさんと高木ブーさんは公開放送の上で和解をし、無事この問題作も発売ができることとなったそうです。

 

高木ブーは神!

 

◆鬼の恰好なのに高木ブーが寝てない貴重映像はやっぱり音楽演奏と歌の熱唱!

 

高木ブーさんが鬼の恰好で雷様コントをする際にも、実は寝ていない、全然寝る様子もないノリノリ出演という奇跡のシーンというのがありました。

 

 

やっぱり、音楽は
生きるに値する時間らしい!

 

 

超嬉しそう!w

 

 

大熱唱!w

 

 

高木ブーさんが色々なゲストと音楽を楽しむシーンが残っています。やはり高木ブーさんとしては音楽バンドから始まったザ・ドリフターズの事も忘れたくないという気持ちが大きかったのかもしれません。

 

◆1985年9月(年齢52歳)TBSテレビ番組『8時だヨ!全員集合』全803回で通算15年6か月の歴史に幕を閉じ放送終了その後の高木ブーははウクレレへ

 

そんな昭和のお茶の間を沸かせ続けたザ・ドリフターズ『8時だヨ!全員集合』1985年には時代の役目を終えたがごとく、放送終了に至ります。

 

 

全803回の放送!
15年6か月!

 

いつまでも変わらずに一緒に居続けるということは、この世界ではできないことのひとつです。

 

 

◆1999年(年齢66歳)高木ブーは雷様からウクレレ演奏者としてのハワイアンブームを起こした腕前が注目されNHK趣味悠々ウクレレ教室番組を担当!

 

高木ブーさんはザ・ドリフターズの仲間たちとのコントも楽しんでいたようでしたが、やはり心の底では若い頃からの音楽活動への気持ちが強くあったようです。

1999年からはNHK趣味悠々の「ウクレレ教室」番組を奏者として担当し、クローズアップされています。

 

 

すべての始まりである
ウクレレへ。

 

『ドリフ大爆笑』がひと区切りついて、もう好きなことしていいよってなった。
そこで何をやろうか考えて、「そうだ、昔やってたハワイアンがある」って。だから、ドリフのメンバーも僕がウクレレ弾くって知らなかったと思う。
引用元:文春オンライン

 

メンバーそれぞれが
新しい道へ。

 

 

ウクレレこそ
すべての原点。

 

ウクレレで始まった音楽人生は、ギターやドラムをやったり、ロックやジャズを演奏したりと形も変わっていきました。

ですが、50歳を過ぎたころ、ウクレレこそ自分の原点であると強く思い、このまま100歳まで弾き続けたいですね。
引用元:広報かしわ

 

 

いかりや長介さん、仲本工事さんは俳優業への転身、加藤茶さんと志村けんさんは引き続きコメディアンとして活躍する中、音楽へ戻ったのは高木ブーさんだけでした。

 

 

◆2001年(年齢68歳)ハワイアンミュージックの火付け役から自身の店「ブーズバー・ハロナ(Boo’s Bar HALONA)」を麻布十番に開店!

 

2001年に高木ブーさんは自身の店「ブーズバー・ハロナ」を開店しています。

 

 

高木ブーさんのお店、「ブーズバー・ハロナ」はテーブルは5つほどで20人も入れば満員になってしまうような小さなお店だったというお話ですが、定期的にウクレレ発表会が催され、「高木ブーとニューハロナ」が最後に演奏するという素敵な時間を演出していたようです。

お店で出てくる食べ物も大変美味しいと評判でした。

 

 

しかし、2006年7月に「ブーズバー・ハロナ」は残念ながら閉店されてしまったようです。後に2009年に変形性膝関節症を患い、結局両足の人工関節置換術を受けていることから、身体上の理由からという事が考えられます。

 

◆高木ブーさんが8歳の時に始まった戦争体験、相手国アメリカの音楽ハワイアンをやること

 

高木ブーさんにとって、やはり鮮烈な記憶を今でも残すのは小学校3年生から小学校6年生の間、日本で起こった戦争体験であるようです。

 

 

高木ブーさん空襲の時に低空飛行で飛んできて焼夷弾をバサバサ落としてくる大きな爆撃機の映像を、今でも鮮明に覚えていました。

 

焼夷弾っていうのは、筒の中にゼリー状の油脂が入ってて、落ちたときにポーンと周りに飛び散って引火するの。あっという間に燃え広がっていく。油だから水かけたって消えないんだよ。
引用元:文春オンライン

 

 

焼夷弾を落とされ
生家が丸焼けになった時の悔しさ

 

巣鴨の家が火事になったときは消そうとしたよ。でも、ドラム缶でもダメ、風呂場の水でもダメ、池の水でもダメ。それで逃げたんだから。悔しかったよ。
引用元:文春オンライン

 

これはご経験がある方しか分からないかもしれませんが、家族で暮らした家を失うというのは、たとえそれが建替えのようなポジティブな理由であってもとても大きな喪失感を人は覚えるものです。

 

家族で暮らした時間や思い出のすべてが家と共に無くなってしまうかのような気持ちにさせられます。

 


東京大空襲

 

それがさらに戦争によって突然跡形もなく何もかもが全焼し、その地にすら住んでいられなくなるという事を考えた時、その悔しさや憎しみ、悲しみの大きさはきっと子供ながらに果てしないものだったと想像します。

 

高木ブーさんが戦後ハワイアンを始めた頃は、アメリカという国家に対して「憧れ」のような感情は全く無かったと言います。

 

だって、僕らはアメリカに爆撃されたんだよ。
引用元:文春オンライン

 

 

それでも、高木ブーさんには戦前に子供ながらにアメリカ映画を見てカッコいいなあと思う気持ちがあった事や、お兄さんもみんなアメリカ映画を好きだったこと、

兄弟でジャズを聴いていたこと、その兄がウクレレを贈ってくれた事によって、戦後にハワイアンをやる事には抵抗はなかったそうです。

 

 

Life is Boo-tiful

 

その国の音楽をやってるんだからね。でもね、日本っていう国は、アメリカが好きなの。(中略)だから、戦争は軍人が始めたんであって、一般の人の思いは別なんだと思う。
引用元:文春オンライン

 

敵対する国家でも
その国の人は
別ものなんだと思う。

 

 

◆2004年(年齢71歳)いかりや長介が72歳でガンで他界し、高木ブーはザ・ドリフターズ四代目リーダーへ 

 

高木ブーさんの心の根底に若い頃からいつもずっとあるものは

憎しみ争いは豊かさを生まない、だって大切な人と一緒に居られる時間は、思っているよりずっと人生で僅かなのだから

という想いのように感じます。

 

 

2004年、ザ・ドリフターズをここまで引っ張ってきたリーダーのいかりや長介さんがガンの闘病中に72歳で他界してしまいます。ザ・ドリフターズの40周年の記念として『全員集合』『大爆笑』の2本撮りたいねという話をしてオープニングを撮って間もなくのことでした。

 

ドリフを
もう一度やろうって

言っていた矢先だった

 

 

弔辞は最も長く一緒に活動していた加藤茶さんが代表して読みました。その言葉の中には黄金期を闘い抜いた時代のドリフ最後の5人でもう一度やりたかったという想いが何よりも詰まっていました。

 

 

苦しみ抜いた若き日の闘いの時代の思い出は

メンバー全員
かけがえのない時間だった。

 

40年間一生懸命、一生懸命走ってきて絶対に妥協を許さない長さんだったよな。でも40年間本当に気を抜かないで一生懸命やってきたんだと思う。本当にご苦労さん。
これから俺たち4人でドリフターズまだやっていくよ。あんたが残した、財産だからね。
引用元:wikipedia

 

高木ブーさんは、葬儀で「バカヤロー!」と叫びながら大泣きしていたそうです。その後、ザ・ドリフターズ四代目リーダーを自称しているそうです。

 

 

高木ブーさんは志村けんさんを見送った時に「志村は死なないの」と言っていました。

きっとこれまで愛するや戦友のいかりや長介さんなど多くの愛する人を見送った後、肉体は消えてしまっても、繋がり続ける魂の存在を確信しているのかもしれません。

 

 

ですから、急いで逝ってしまった彼らを、しょうがないなあと、また許している事でしょう。

 

そして、今日も高木ブーさんはウクレレを奏でます。

 

また逢う日まで。

 

ばばんば ばんばんばん。

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