小泉純一郎と元嫁・宮本佳代子の若い頃。妻子供生き別れの離婚理由画像

今回は元首相の小泉純一郎氏とその元妻である宮本佳代子さんの若い頃の馴れ初めから結婚、離婚原因と3人の子供達との関係、家族の再会までのお話をまとめました。併せて、その時代の女性の結婚に関する背景としてあったもの、『民法』第722条「推定の及ばない摘出子」「離婚後300日問題」についてもまとめています。

※見出し( )内の年齢は宮本佳代子さんの年齢です。

◆1978年(年齢21歳)政治家・小泉純一郎と花嫁・宮本佳代子は若い頃に14歳年の差結婚!元妻との馴れ初めは国会議員時代のお見合いだった 画像

 

1977年、当時国会議員だった小泉純一郎氏と大学4年生だった元嫁の宮本佳代子さんは21歳という若さでお見合いをし、翌年に結婚へ至っています。さらっと読んでしまうことも可能ですが、よく考えてみると少々モタレるお話です(笑)。

 

 

まだ国会議員時代の小泉純一郎氏と後にご結婚されることとなったお相手・宮本佳代子さんはお見合いで出会っていますが、当時まだ青山学院大学4年生の学生でした。

 

小泉純一郎氏は若手国会議員とはいえ、お見合いが行われた1977年には35歳、結婚する時には36歳にもなる、大学生からすれば、そこそこ立派なオジサンです。

 

 

女子大学生が卒業後(21歳)に36歳国会議員と社会人になる前に結婚するなど、現代ではちょっと気持ち悪い印象がして、それなりにセンセーショナルな出来事だと思います。

 

参考までに、1988年5月に秋元康さん(当時30歳)が自身がプロデュースしていた「おニャン子クラブ」のメンバー高井麻巳子さん(当時21歳)と9歳差で結婚した際も、かなりでしたが、高井麻巳子さんと元嫁の宮本佳代子さんの年齢はほぼ同じ旦那との年齢差はさらに大きいものでした。

 

 

1998年9月に、40歳高橋ジョージさんと三船美佳さん(当時16歳)が24歳差で結婚した際もかなり視聴者は震えましたけれども、こちらの元ご夫婦の方が年齢差はさすがに大きなものとなっています。

 

 

小泉純一郎氏の結婚に関しては、妻との年齢が14歳差という結婚となり、ちょうど秋元康さんと高橋ジョージさんの間位の話となります。

 

年齢差が気持ち悪いというよりは、あまりにもまだ若くて判断能力すらまだ未熟な女性を早々に嫁にする感覚に対して男性の支配欲権力乱用を象徴するものを感じてしまい、とてつもなく違和感のある印象です。

 

それだけ、当時の「小泉家」は若い頃の小泉純一郎さんを含めると政治家家系として3代目という事で、将来が有望視された結婚相手だったという事だという事かもしれません。

 

 

さらにお見合い当日に小泉純一郎氏は元嫁の宮本佳代子さんにプロポーズしたというのですから、ほぼ即決状態。ちょっとこの時代の男女の感覚が私には全く理解ができません(笑)

 

 

◆政治家・小泉純一郎の元嫁・宮本佳代子はエスエス製薬の元会長・泰道照山の孫娘で青山学院大学卒業のご令嬢!かなり若い頃にプロポーズ 画像

 

小泉家の三代目とのお見合いを設定された宮本佳代子さんも祖父には1970年にエスエス製薬の元会長となった泰道照山氏がおり、宮本佳代子さんは泰道照山氏の長女である志計子の娘でした。

 

 

プロポーズの際には小泉純一郎氏はお相手・宮本佳代子さんへ「政治家の世界は何も知らなくていい」と語ったと言われています。この言葉が実は後々、大きな意味を持つことになります。

 

この場面でこの言葉が出てきたときに、女性としては当然、このように理解するものなのではないかと思います。

「政治家の世界は何も知らなくていい」
↓ ↓ ↓
まだ学生である貴女が無理して政治の事を懸命に勉強しなければならないのではないかというプレッシャーは要りませんよ。そのまま安心してお嫁にいらっしゃい

 

・・・という意味ではなかった!

 

 

◆1970年代後半の日本の結婚事情は「全く時代を経ても前進していない状況」だったようだ。専業主婦が圧倒的に多かった時代背景 画像

 

この結婚話が明治時代の話ではなくて、昭和の後半の1970年代後半の時代にあったという事にも正直驚かされてしまいます。その時代においても裕福な家庭のご令嬢にとっては割と一般的な事であったのかもしれませんし、あるいは現代でも引き続きご令嬢界隈では存在する風習でもあるのかもしれません。

 

 

女性は男性の財力に
ぶら下がる人生という時代。

 

女性が男性と同じように社会で活躍して働き稼ぐ、という概念がそもそもこの世代の日本国内には薄く、「家内」となって旦那を「内助の功」で支え、子供を産み「良妻賢母」として男性と「嫁ぎ先のイエの繁栄」の為に生きていくことが当時の女性たちには求められていたようです。

 

 

良妻賢母の象徴である八千草薫さんは1970年代に男性からとても人気の女優さんでした。

 

その背景には,封建制社会のイデオロギーである儒教の男尊女卑思想があり,この思想のもとで女子には知的教養は不必要かつ有害とされ,同時に女子の社会活動が著しく制限された。(中略)
明治以後,第2次世界大戦終了まで日本の女子教育の基本理念であった。
引用元:コトバンク

 

 

そうなると、女性は「若ければ若いほどよく」女性としての価値の高いうち(?)に「確実な家へ嫁がせたい」というのが女性の生家側の意向としてあったのかもしれないという想像が働きます。

 

こういった背景を考えると明治時代どころか、女性の運命というのは平安の通い婚時代、鎌倉武家の政略結婚などから殆ど変わらずにこの時点まできているんだなという印象を覚えてしまいます。

 

 

私の両親は小泉純一郎氏とほぼ同じ時代に結婚していますが、母親は父親の会社を夫婦共働きで支えていた為、働く女性でした。同じ時代の女性でしたが同年代の親戚も含め、周りが趣味のお稽古などに明け暮れる優雅な専業主婦ばかりの中、ずっと働かなければなりませんでした。

 

「専業主婦世帯と共働き世帯の推移」のグラフを見てみると、1970年代後半からちょうど専業主婦世帯というものの数は低下に転じ、2008年頃を境に逆転しています。

 


画像:専業主婦世帯と共働き世帯の推移

 

従って、子供を「保育園」に預けることについても、私の母の世代ではまだ少数派であり、(女性が結婚して働くなんて)恥ずかしいことのように思えた」「専業主婦になりたかった」と長い間、夫(私の父親)には言えない恨みつらみと他の女性たちへの妬みを、母は娘(私)には語っていました(苦笑)。

 

 

◆政治家・小泉純一郎と元嫁・宮本佳代子の若い頃の結婚話は、実は元妻の祖父・エスエス製薬の元会長となった泰道照山から反対されていた画像

 

ところが、調べていくとお見合いとの兼ね合いが分かりませんが、小泉純一郎氏と元嫁・宮本佳代子さんの結婚には、父親的な存在だった宮本佳代子さんの祖父・泰道照山氏から反対されていたそうなのです。

 


引用元:首相官邸

 

泰道照山の血縁者は「結局、泰道家とは絶縁寸前までいった。“出て行くならその身体一つでいけ”という具合。それでも小泉さんから“何の心配もいらない。僕たちの結婚には関係ない。白紙のままで来てほしい。”と言われ、その言葉を信じて嫁に行った」と述べている
引用元:Wikipedia

 

身体ひとつで嫁げ

 

泰道家からすると、政治家の嫁になることがどれだけ苦労することか、という意味だったのかもしれませんし、

戦後、小泉純一郎氏の祖父にあたる又次郎と父親の純也は相次いで公職追放にあい、貧しい生活を余儀なくされていたと言われていることから、逆に泰道照山氏の孫娘・宮本佳代子さんとが結婚することで何かしらの利権を狙われていると考えたのかもしれません。

 

けれども結局、1978年1月に時の総理大臣・福田赳夫氏が晩酌人となって、お二人はご結婚されます。青山学院大学に幼稚園から通っていた箱入りのお嬢様である宮本佳代子さんは小泉家へ嫁ぐこととなりました。

 

 

◆政治家・小泉純一郎は元嫁・宮本佳代子とでき婚で結婚!夫妻の子供である孝太郎と進次郎を若い頃に出産!小泉家の跡取り息子が誕生。実は第3子三男・佳長もいて『民法』第722条ではかなり複雑な状況に 画像

 

そういう時代背景の中、小泉純一郎氏と結婚した宮本佳代子さんは、1978年の結婚した年の7月10日に長男の小泉孝太郎さんを出産しています。この経緯から考えると、元旦に入籍結婚していたとしても7月10日の結婚は日数的に早すぎる為、おそらくデキ婚だったことが推定されます。

 

これが反対理由だったのかも(;’∀’)?

 

 

そうなると、小泉純一郎氏と元嫁・宮本佳代子さんの結婚は本当に小泉純一郎氏の「純粋な男心」と恋愛感情だけで始まったとも言えそうです。

 

●1978年7月 長男 小泉孝太郎 誕生
●1981年4月 次男 小泉進次郎 誕生

 

見事に息子・進次郎も
デキ婚を継承。

 

 

ついでの話ですが、小泉純一郎氏の長男・小泉孝太郎さんが生まれたのは7月10日、という事は仮に元旦に入籍していたとしても婚姻後190日で第一子誕生

 

そして次男の小泉進次郎さんが滝川クリステルさんと入籍したのが2019年8月8日、妻の滝川クリステルさんが第一子男児誕生したのが2020年1月17日という事で婚姻後162日での第一子誕生。

 

つまり、どちらも『民法』第722条上は「推定の及ばない摘出子」となるところまで親子で一緒です。

 


画像:イワタ行政書士事務所

 

加えて、次項で出てくるため、先にお話すると、小泉純一郎氏と元嫁・宮本佳代子さんの間には実は第3子にあたる三男・宮本佳長さんも誕生します。

 

●1982年離婚~半年後 3男 佳長誕生

 

この三男・宮本佳長さんについては『民法』第722条二項「離婚後300日以内に生まれた子」にあたり、「推定される摘出子」となります。(※現在「離婚後300日問題」は前夫の子と認定される事を避ける理由で母親が出生届を提出しないケースが無戸籍者に繋がる問題と合わせて法改正の必要性が検討されています。)

 

 

◆1983年(年齢27歳)政治家・小泉純一郎と元嫁・宮本佳代子は離婚へ!結婚生活中、旦那の2回の選挙当選を後押ししてきたが約4年で「小泉家訓」により破綻。離婚理由は?原因に義母と義姉? 画像

 

前述のように小泉純一郎氏と元嫁・宮本佳代子さん(当時27歳)は1983年に離婚が成立しています。しかし、離婚当時に宮本佳代子さんのお腹の中には第3子となる宮本佳長さんがおり、離婚から半年後に誕生しています。

 

 

小泉純一郎氏と元嫁・宮本佳代子さんの離婚原因となったこととしては、国会議員である夫を落選させるわけにはいかないと宮本佳代子さんが夫・小泉純一郎氏の選挙活動や応援活動に関して協力しようと介入したことだったと言われています。

 

子供を背負ってでも夫・小泉純一郎氏の為に横須賀駅前での選挙応援に参加していたと言われている元嫁・宮本佳代子さんでしたが、そのことがかえって小泉純一郎氏の実の姉たちの間でよく思われなかったようです。

 

 

箱入り娘の上に
美人過ぎたのもあったかも(笑)

 

小泉純一郎氏は小泉家の長男ではありましたが、姉が3人(道子・隆子・信子おり、そのうち姉の小泉信子さんは政策秘書、弟の小泉正也さんは私設秘書と政治活動については「小泉家」親族が仕切っていたようでした。また、母親の小泉芳江さん、義姉3人、義弟兄弟の子供と共に大勢での一家同居だったようです。

 

姑・小姑たちとも同居生活。

 

 

特に小泉純一郎を
溺愛する姉・信子と
折り合いが悪かったと言われている。

 

大学を卒業した後にすぐに嫁いだ宮本佳代子さんに対し、義姉の小泉信子さんは「政治家に必要な“票とカネ”を集める苦労も知らない嫁」と語っていたと言われていますし、結婚後は甘い新婚生活ではなく、ひたすら姉に服従する同居生活であり、生活費も義姉から貰っていたようです。

 

結婚生活は約4年で破綻。離婚理由は良かれと思ってやっていた選挙活動『人間小泉純一郎』(講談社)の著者で、政治評論家の浅川博忠氏が明かす。

小泉家では、奥さんは選挙活動に加わらないという“家訓”があったんです。(宮本さんは)それをちゃんと理解していなかったのか、女系家族で発言力が強く、選挙を取りしきっていた小泉氏の母親や姉との折り合いが悪くなり、離婚の大きな原因になったと言われています
引用元:Asagei

 

女同士の小競り合いが
家庭内で勃発。

 

 

子供達のためにも
嫁・守ろうよ(;’∀’)

 

◆政治家・小泉純一郎の元嫁・宮本佳代子の若い頃の離婚原因、夫妻の別れに創価学会員になったことも理由にあった?画像

 

もう一つ、離婚原因として言われている事として、小泉純一郎氏の元嫁・宮本佳代子さんが結婚後に創価学会に入会したことが理由という話も情報としてありました。

 


引用元:twitter

 

精神的に不安定な状況に追い込まれて、そうした団体に藁をも掴む気持ちで入るという事もリアリティーがあるなという印象でもありますが、この事実によって、「政治家の家」としては放置しておけない事情という事だったのかもしれません。しかし、この件に関しては事実かどうかは不明です。

 

 

◆政治家・小泉純一郎の元嫁・宮本佳代子の離婚理由、夫妻の別れの原因に夫の若い頃からの年下愛人の存在もあったのでは?画像

 

これは別件で話に上っていた事ではありますが、離婚原因として小泉純一郎氏の別の女性の存在もあった可能性があるのではないかと感じます。家の中が女性同士の争いで揉め続けているときに板挟みになる男性がほかの女性のところで心休まる時間を過ごしたくなるというのも、いいか悪いかは別として自然なことかもしれません。

 

 

離婚から9年後の1992年5月、東京都港区三田に住んでいた女性が亡くなったことで、その女性が新橋で芸者として働いていた小泉純一郎氏の元愛人だったという事が分かりました。

 

この女性は小泉純一郎氏よりも27歳も年下で、9年前にあたる元妻・宮本佳代子さんとの離婚の時には未成年となるので離婚原因の直接のお相手としては考えにくいですが、

この女性の場合、自宅住居であったマンションの家賃は小泉純一郎氏が費用を出しており、さらに月々の「お手当て」も出していたという情報から、かなりこうした関係構築に小泉純一郎氏がこれ以前から「手慣れている」様子が分かります。

 

そして、小泉純一郎氏の元嫁である宮本佳代子さんが、まだたった4歳の小泉孝太郎さん1歳の小泉進次郎さんを置いて、さらに身重の状況で「離婚」を決断するということは並大抵の決意ではありません。

 

 

最初のお子さんではありませんし、産後に子育てで自分がどのような状況になるかも想像がつくでしょう。実家へは結婚時の状況があったことから助けて貰えるかどうかも確実ではない状況と考えると、女性としてはよほどの決意だと言わざるを得ません。実際、宮本佳代子さんはその時のお話をおこのように語っています。

 

宮本さんは、2016年4月号の『いきいき』(現・ハルメク)独占インタビューで、取材で「日に日におなかが大きく膨(ふく)らむ中で、『ひとりで元気な子を産むことができるのか』という不安――二重の不安に押しつぶされそうで毎日泣き続けていました」と辛い過去を告白しています。
引用元:https://riekoblog.com/

 

そこまでしても離婚することを選んだという背景には、小泉純一郎氏との結婚生活に対する現在だけでなく将来に及ぶ「絶望」と結婚相手として選んだ旦那に対する憎しみや恨みといった負の感情が爆発する状況だったという事でしょう。どうせ人生を棒に振るなら、自分の決断の元で地獄を見る方がマシ、という気持ちかもしれません。

 

これまで耐えてきた家族内の問題以外に、妊娠中に離婚するほどの突発的な爆発力のある出来事が起こったという状況を考えると、最も現実的なのは女性問題ではないかと感じました。

 

 

小泉純一郎の離婚時期と
石原慎太郎の隠し子誕生の時期がほぼ一致。

 

余談ですが、この方も同時期にあたる1981年石原慎太郎 年齢49歳当時)に女性に出会い、その女性との関係を続けておられました。女性が24歳の時(石原慎太郎 年齢 51歳)に妊娠し、1983年ないし1984年に隠し子が誕生しています。

 

一応、遠い親戚。

 

 

この時代の政界の雰囲気を象徴するような内容となっています。偶然の事実の一致とはいえ、この時代の女性に対する感性もおそらく一致していただろう男性お二人です。

 

どうかと思うよ、ホント。

 

 

◆1984年(年齢28歳)元嫁・宮本佳代子は離婚後三男・佳長を出産するが、政治家・小泉純一郎が家庭裁判所の調停で息子の親権を争う事態へ。以後長男・次男とは生き別れ絶縁状態 画像

 

さて、結婚後4年あまり、妊娠6か月での離婚を選択することになった元妻・宮本佳代子さんは「小泉家」の跡取りである長男の小泉孝太郎さん(当時4歳)と進次郎さん(当時1歳)を「小泉家」へ置いて出ていかなければならない状況となってしまいます。

 

 

母親との別れの日、小泉進次郎さんは泣きながら母親を追いかけるのを、小泉純一郎氏の姉に引き留められ、兄である小泉孝太郎さんは唇をじっと噛んで堪えていたという話があります。

 

ここから、数十年
母子生き別れ状態と
なってしまうことになります。

 

 

◆1983年(年齢歳)政治家・小泉純一郎と元嫁・宮本佳代子が離婚後に出産した第三子佳長(三男)の親権を家庭裁判所の調停で争った背景に『民法』第722条推定と養育費・相続問題? 画像

 

さらに、妊娠中だった元妻・宮本佳代子さんは27歳だった1982年に離婚した後、翌1983年に離婚後の修羅場の中で三男の宮本佳長さんを出産しています。

 

佳代子さんは当時を「いちばん辛く悲しい時期で、一生分ぐらいの涙を流した気がします」と振り返っている。
引用元:j-castニュース

 

第3子である宮本佳長さんの親権をめぐり、家庭裁判所の調停で親権を争う場面もその後あったそうです。「裁判」ではなく「調停」であるということから、お互いに別々の部屋で調停員を通して問題解決に向け話し合うという状況だったと思われます。

 

 

私自身も離婚の際に調停を経験した立場でもあることや、子連れ離婚の経験者であることから、この件に関して想像できることがいくつかあります。

 

まず、元妻・宮本佳代子さんが妊娠半年で出ていく際に、「小泉家側」元妻・宮本佳代子さんの妊娠について認識していたかどうかという事がとても大きな焦点になるかと思います。

 

問題は
養育費と相続だったのでは?

 

 

離婚後出産し、第3子についての「養育費」または「戸籍(前述のように『民法』推定が及ぶ摘出子であること)について」の話が入って初めて動いた問題だったのではなかったか?という事です。戸籍についてはたとえ離婚後に誕生したとはいえ、前述のように300日以内の出生であることから法律上も小泉純一郎氏の「実子」であることになり、将来的には小泉家の財産「相続人」となるからです。

 

そうした話があって、「第三子の親権を争う」状況に発展したと考えるが自然ではないかと想像します。「養育費はビタ一文払わない」」と言い放っていたという事も、元々養育費を求められなければ出て来ない話である気がします。

 

養育費を求めることは守銭奴なの?

 

 

離婚した元妻が養育費を求めることが男性社会では「欲深く」「悪」のような話になることも多々あるようですが、元妻・宮本佳代子さんの状況を想像してみれば、実家にも結婚を反対をされていたのにも関わらず、小泉純一郎氏との将来だけを信じて、社会に出る前に「小泉家」に嫁ぎ、何も社会人経験がないまま嫁いでいます。

 

人生を信じた伴侶に
捧げたようなもの。

 

言ってみれば、この離婚の場面では元妻・宮本佳代子さんからすれば、新生児を抱えて丸腰での再起です。新生児を背中におぶって社会人経験ゼロの女性が働くことを許してくれる雇い主が現代にどれだけあるでしょうか?

そこで自分がどんなに悪い女だと貶されようとも、我が子の未来を少しでも守るために身一つで闘う元妻に対し、血を分けた我が子にすら養育費を一銭も払いたくないなんて言ってしまう養育費を払うくらいなら親権よこせと言ってしまうあさましさの方がよほど愚かな人間性に感じます。

 

 

『去る者は追わず、来る者は拒まず』だな

これが離婚の際に、小泉純一郎氏が元嫁の宮本佳代子さんへ放った言葉だそうです。

 

正直、よく無事でいられたなと思います。

 

自分達が普通に生きてさえいければ、自分を信じて実家を捨て付いてきた元嫁、血を分けた子供すら野垂れ死んでも構わないというような残酷性すらある話です。恨まないわけはない。

 

小泉純一郎氏がもし本当にこのような情報通りの内容を事実として元妻子に行ってきたとすれば、愛人の家賃手当ては払っても、元妻子には一銭も払いたくないという感性だったことにもなります。

 


画像:https://www.kantei.go.jp/

 

なにが
男女共同参画だよww
って話になります。

 

調べていくと、小泉純一郎氏の人間としての価値観のひとつとして「お金に執着を持たない」「楽をしない」「苦労をする」というようなものをいつも周りに強要する部分があるのですが、

この「第三子の親権争い」に関しては、何となくやはり「小泉家側」の親族の強い力が働いたことを感じずにはいられません。しかし、仮にそうだったとしても、最終的に身内のそうした決断を看過したのはいずれにしても小泉純一郎氏本人だったという事になります。

 

母と子供が生き別れ。

 

 

これでは、北朝鮮の拉致問題で被害者家族の気持ちを理解していないと言われても仕方がない気がします。自分自身が身内で「生き別れ」状態を放置し続けてきたのですから。北朝鮮訪問時に安倍晋三さんが焦って一人芝居したというのも頷けます。個人的には、拉致被害者を帰国に導いた人だと私は思っていません。

 

◆政治家・小泉純一郎と元嫁・宮本佳代子の離婚後は姉・小泉道子が息子たち(孝太郎・進次郎)を養育。第三子・佳長は元妻が育てる 画像

 

離婚後の調停で第三子・宮本佳長さんの親権については元妻・宮本佳代子さんが持つことで決定したようです。裁判ではなく「調停」ということなので、ここも当事者同士、お互いの条件をすり合わせていったところでの結論という事になりますので、元妻・宮本佳代子さんが第三子の親権を持つにあたり、飲まなければならなかった条件というものがあったことが予想されます。

おそらく養育費の問題ではなかったかと考えてしまいます。

 

しかし、養育費は
妻ではなく「子供の権利」

 

 

実際、宮本佳代子さんが息子である小泉孝太郎さんや進次郎さんに会いたいと言っても小泉純一郎氏(小泉家側)の意向で会うことは叶わなかったようです。(ちなみに面会も「子供の権利」)

 

総理大臣だったのが不思議。

 

こうしてかなり大変な状況下で残されたたった一つの希望である第3子の宮本佳長さんを育てながら、必死で生きていく頃になります。幸い実家の倉敷へ身を寄せることができたというお話が合ったので、実家のご家族と共に、宮本佳長さんを守っていかれたのでしょう。

 

一方、小泉家は
姉・道子が母親代わりに

 

「小泉家」では小泉純一郎さんの姉である小泉道子さんが子供たちの母親代わりとして活躍されたようです。子供たちは小泉道子さんを「ママ」と言い、次男の小泉孝太郎さんは中学生になるまで小泉道子さんを本当の母親だと信じていたそうですから、本当に愛情をこめて育てられたのだと思います。

 


小泉道子さん

 

また、それができたという小泉道子さん自身も1961年に竹本公輔氏との離婚以降、1957年に生まれた娘の純子さんを父・小泉純也の養女として戸籍に入れ、自身は生涯独身だったようです。人生を自らの幸せよりも子供たちを育てることに奮闘されたという事になりますから、背景は色々あれど、とても尊いことのように感じます。

 

 

写真の左側の女性は小泉兄弟の従姉妹にあたる、鍋倉純子さんという方だそうです。小泉道子さんの娘さんという情報です。

 

 

2016年8月に84歳という年齢で小泉道子さんは亡くなっていらっしゃいます。育ての母である小泉道子さんとのお別れに際し、長男の小泉孝太郎さんも涙を流して特別な思いで見送られたようです。

 

 

◆政治家・小泉純一郎の元嫁・宮本佳代子は離婚後、三男息子を出産したあと半年で三井不動産リアルティへ営業職で入社。宅建士の資格を取得!小泉家とは音信不通 画像

 

少し時代は戻って、小泉純一郎氏と離婚した後の元嫁・宮本佳代子さんは第三子を出産後、半年で就職をしています。産後半年の間にも調停があったり、引越しや各種手続きもあったでしょうから、本当にできるだけ早く働きに出て、母子の生活における経済的な立て直しをしなければならないという緊迫感があります。

 

 

出産から半年足らずで宮本佳代子さんが入社したのは三井不動産のグループ会社だったようです。1か月間の猛勉強で宅地建物取引主任者(現・宅地建物取引士)の資格を一発合格で取得し、不動産業界でキャリアを積み重ねていかれました。

 

私自身も離婚後に不動産業界に居たことから、男性社会で子どもを抱えて生き残ることの大変さはとてもよく分かります。けれども不動産に関しては、努力をすれば男性社会であるからこその有利さというものもあった気がします。

 

例えば、夫婦のマイホーム購入で細かい部分を見定めるのは「妻の視点」であることが多く、暮らしに常に関わっていることから家の内側の価値目線は女性の方がぐっと厳しいものです。

 

その後のきめ細やかな対応や女性ならではの心配(子育てや安全、環境に対する視点など)に対して対応できるのは家事をしたこともないゴリゴリの不動産業の男性より、女性の方が明らかに有利だったからです。

 

 

宮本佳代子さんが離婚した当時は、離婚した女性に対する世間からの風当たりはとても強かったそうですが、宮本佳代子さんが「不動産業界」を選んだことには何が何でも「自力で」未来を切り開くことを考えてのことだったようです。

 

身内を頼ることもできたが、それは嫌なので働くことにした。その際、女性ではめったに扱えない億単位の仕事ができる不動産を選んだ
引用元:Asagei

 

 

そう考えるのも当然で、宮本佳代子さんはすでに「結婚」という女性の人生で最大の決断において、信じた旦那さんに自分の人生のすべてを捧げる決断をしたことで、結果「はしごを外されて転落する」という事を経験しています。

 

自分の足で立たなければならない。

 

離婚後の女性がしばしば考えることはこうしたことではないかと思います。何かが起こった時に、自分の足で立っていられない程の状況再起不能の転び方をすること自分だけの問題ではなく、子供の将来も潰してしまいかねないリスクを伴う選択であったことを振り返るのです。それは相手が親族になろうが誰になろうが同じことだと思います。

 

 

勿論、宮本佳代子さんが幸い実家の家族に身を寄せられたことは、人生の再生にとって最も大きな力になったと思いますが、そこへさらに経済的にぶら下がるような選択を選ぶ気持ちにはなれなかったという本質を見極める強さがあったのだと感じます。

 

◆2001年(年齢45歳)元嫁・宮本佳代子との子供三男・佳長が面会を求めるも、秘書に止められ会えず。政治家・小泉純一郎が第87代内閣総理大臣になった年だった。画像

 

2001年、小泉純一郎氏は第87代内閣総理大臣となります。ここまでの話を見ていくと、よほど元妻・宮本佳代子さんの方が資質があるのではないかと思ってしまいますが(笑)、分からないものです。

 

 

「小泉家」では家から「内閣総理大臣」が出てしまったという事から、これまで以上にマスコミに対して徹底的な統制がなされていたという情報もあります。

 

そういった意味で、時期が悪かったという事もありますが、2001年の夏に、三男の宮本佳長さんは、小泉純一郎氏に面会を求め、静養先の箱根へ会いに行く決意をします。しかし、いずれも秘書に止められて面会の実現はできなかったそうです。秘書と言っても小泉純一郎氏の周りは身内ばかりなので、大事な時期にスキャンダルになっては困るという「小泉家側」の親族の意向という事だったのでしょう。

 

三男の佳長が父親に会いたくて電話をしたところ小泉道子の妹で影の支配者とも言われていた小泉信子「血はつながっているけど、親子関係はない」と言ったという。
引用元:https://sarattosokuhou.com/

 

小泉純一郎氏自身も、自身が政治家である間は会うつもりはないと語っていたようです。

 

何しろ、
ことごとく残酷。

 

◆2001年11月 政治家・小泉純一郎の元嫁・宮本佳代子は三男・佳長を連れて元義母・小泉芳江の葬儀告別式を訪れたが焼香・献花も許されず 画像

 

同年11月には小泉純一郎氏の母親である小泉芳江さんが93歳で亡くなったという事で、元嫁の宮本佳代子さんと三男の宮本佳長さんはその葬儀告別式を訪れましたが、2人が式場へ入ろうとすると、やはりこの時にも秘書に止められ、控室に隔離されることとなったようです。

 

 

芳江について、又次郎の養女だった近藤壽子によると「(芳江は)気に入らないとすぐに絶縁するんです。絶縁が大好きなの(笑)。でも人がいいから、たいてい自分の方から折れてくる。やはりお嬢さんですね。」
引用元:Wikipedia

 

けれども結局、元嫁の宮本佳代子さんと三男の宮本佳長さんが葬儀に参列することはできませんでした。焼香・献花も許されず、当時総理大臣だった小泉純一郎氏にも顔を合わすことすらできなかったそうです。これは政治記者の話です。

 

元妻は、そういう人だと
知っていただろうけど、

三男はどれだけ失望したことだろう。

 

 

当時、自民党内や官邸で、小泉氏の元妻について話すのはタブーという雰囲気があった。外国を訪問する時も代理のファーストレディをどうするのかという話さえ、出なかったそうです
引用元:Asagei

 

独身総理。

 

 

こうした経緯があって、宮本佳代子さんは自身に残された最愛の息子である宮本佳長さんに対しては、このように言って育てたそうです。

 

父親が有名でも、あなたとは関係ない。あなたの母はいちサラリーマン。勘違いしないで生きていきなさい。
引用元:『いきいき』

 

同じ母親として思う事は、ココまでがココまでなので(;’∀’)宮本佳代子さん自身に大きな失望はもはやなかったでしょうが、自分だけでなく息子をも失望させた元夫に対して、「やっぱりね」という気持ちがあるだけに、「期待しては夢を描いてはいけない相手なんだ」という事を息子へどう伝えるべきか考えただろうと思います。

 

宮本佳長さんは私立中学卒業後にアメリカテネシー州の高校へ留学し、帰国後に京都外語大学中国語学科へ進学されています。教育方針として、「身の回りの生活も経済に関しても自分の足で立たなければならない」という事を大事にしたものに見えます。現在は母と同じ不動産業に就いているそうです。

 

 

◆2008年(年齢52歳)政治家・小泉純一郎が政界を引退をきっかけに兄弟が交流!2010年(54歳)には三男・佳長と初対面へ 画像

 

2008年、小泉純一郎氏は政治家を引退することを決断し、以降は次男である小泉進次郎さんを後継者として指名。同時に孝太郎さん、進次郎さんに対し「自分は今さら会えないが、お前たちは3人兄弟だから仲よくすればいい。」と三男・佳長さんと交流することを許可したそうです。

 

 

そこで、小泉孝太郎さんが食事会を設定し三男・佳長さんと連絡を取って、兄弟3人で会うことが実現したそうです。また、2010年頃になると兄弟3人の食事会へ父親の小泉純一郎氏も参加し、人生で初めて父親・小泉純一郎氏と三男・佳長さんが対面するというドラマチックなことが実現しています。

 

 

それでも、息子たちのことは
一応、気にかけて育てていたらしい。

 

 

◆2013年秋(年齢57歳)小泉純一郎と元嫁・宮本佳代子が三男・佳長の結婚式で離婚以来30年ぶりの再開へ。家族が初めてそろう瞬間が実現

 

さらに、2013年の宮本佳長さんの結婚式にはなんと、小泉純一郎氏、長男・孝太郎さん、次男・進次郎さんが揃って出席し、もちろん新郎の母親として宮本佳代子さんも出席していることから、家族5人が人生で初めて集合する機会となったようです。

 

 

一期一会とは
まさにこのこと。

 

小泉孝太郎さんと進次郎さんも離婚以来30年ぶりでの実母との再会です。

 

 

◆2016年(年齢60歳)小泉純一郎が政治家を辞め政界引退~今現在 離婚後33年で元嫁・宮本佳代子が雑誌『いきいき』で手記を発表!三井不動産グループエースへ 画像

 

政治家・小泉純一郎氏との離婚から33年という月日が経過した2016年、元嫁の宮本佳代子さんは書店では購入できない直販シニア雑誌の『いきいき 4月号』にて6ページにわたる手記を綴っています。

 


画像:シニア雑誌『いきいき』

 

長男の小泉孝太郎さんが俳優としてデビューした時にも、次男小泉進次郎さんが政界へ進出した時にもずっと沈黙を守ってきた母親・宮本佳代子さんでしたが、60歳還暦を迎え、自身が手塩にかけて育てることができた三男・宮本佳長さんも結婚して自立したこともあって、インタビューに応じられたようです。

 

この手記において・宮本佳代子さんが強調していたことはこんなことでした。

 

片時も長男・孝太郎、次男・進次郎、三男・佳長の事を忘れたことはない。
いつも三人の存在に支えられて今がある。

 

現在、宮本佳代子さんはは三井不動産グループの富裕層ビジネス担当のエースだそうです。そこまでになるまで頑張ることができたのは、「息子が社会人になるまで死ぬわけにはいかない」という気持ちだったそうです。

 

 

また、離れていても息子への愛情はきっと届くと信じていたという宮本佳代子さんでしたが、生き別れとなってしまった二人の息子たちがそれぞれ活躍し、メディアでも取り上げられることで自分自身がその姿に勇気づけられてきていたと語っています。

 

家族の再会、そして大変な時代を乗り越えて子供を自立まで無事に導いた宮本佳代子さんの表情がとても柔らかく幸福感があって印象的でした。

 

こうして幸せな形で家族が再会できたのも、宮本佳代子さんが息子との幸福を自分の手で勝ち取ったからこそのことだと思いますし、母親を失った後の小泉孝太郎さん、進次郎さんが立派に成長したからこそのことだと思います。

 

両方、幸せだったから実現した。

 

 

そう思うと、生き別れた母子が離れたところでそれぞれ皆、自身の課題と向き合って闘い、自分の足で立ち、幸せを実現したからこその「今」であることは間違いありません。

 

幸福でないことを
誰かのせいにして恨むより

自分で勝ち取ったしあわせの上で
過去の涙を笑い飛ばす方が良い。

 

そして現在の宮本佳代子さんの表情からは、自分を強くしてくれた元夫にも、離れ離れになった息子たちを立派に育ててくれた小泉家の義姉たちにも、自分に可能性を与えてくれた仕事に対しても、感謝しかないという表情をされています。

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