千昌夫の額に昔若い頃あったほくろが除去された年齢と理由は?画像

今回は昭和の大物歌手で元不動産実業家だった千昌夫さんのトレンドマークであった額のホクロに関する歴史と変遷、除去手術の時期やその理由などについてかなり詳しく追ってみました。

◆芸能人演歌歌手・千昌夫の昔若い頃からのトレンドマークほくろ!モノマネでも重宝された額の福ボクロ 画像

 

昭和の大物歌手である千昌夫さんと言えば、おでこにある大きな福ボクロがトレンドマークでした。

 

 

千昌夫と言えば
オデコのほくろ!

 

モノマネ四天王のコロッケさんが、千昌夫さんのモノマネをする時にはかなりセンセーショナルな大きさのホクロをつけて強調されてきたことで、千昌夫さんの額のホクロは一層有名にもなりました。

 

 

ここまで大きくないだろw
とツッコみたくなる程の大きさが面白かった。

 

◆1957年(年齢10歳)歌手・千昌夫は昔、子供時代に父親が他界し、貧しい母子家庭へ。名曲『おふくろ』ほくろナシ画像

 

千昌夫さんは1947年に岩手県陸前高田市の農家の次男としてで生まれ、まだ小学校4年生という子供時代に左官職人だった実の父親を亡くされています。

出稼ぎ先であった北海道の地で急性心臓麻痺を起こしたことによる他界だったそうです。

 

 

千昌夫さんの家庭は子供を抱えて母子家庭となったことから、母親は早朝から畑仕事をこなして気仙沼で朝から晩まで働き続けていたそうで、電気を止められたり、教科書が買えない程の貧しさだったそうです。

 

困窮の
若き少年時代。

 

その為、中学卒業の若い頃の時点で働こうと思っていた千昌夫さんでしたが、兄の経済援助で高校へ進学を果たしています。

また、その間も歌手を目指す前にも父親の仕事であった左官職人を目指したり、相撲取りを目指したり、プロボクサーを目指したりなど、家の経済を一気に立て直すことができるような方向性へチャレンジをし模索していたようです。

 

一攫千金体質は
若い頃から!

 

 

そうした経緯を経て、高校2年の時点で家出同然で上京し、若い頃に最後に粘りに粘って弟子入りしたのが作曲家の遠藤実氏の所だったようです。アイドル風青春歌謡歌手を目指していくことになります。

 

早く母親を
楽にしてあげたかった。

 

ここで名曲『おふくろ』の画像をもう一度見てみると、千昌夫さんのトレンドマークの額のホクロが除去されたのか無くなってしまっています。

 

どこかの時点で
千昌夫はホクロ除去をしたもよう。

 

 

◆1965年(年齢18歳)歌手・千昌夫の若い頃のデビュー曲『君が好き』昔からほくろの大きさにはインパクトがあったの? 出身は? 画像

 

千昌夫さんは上京後、作曲家の遠藤実氏の元へ1965年に弟子入りし、その年の9月に『君が好き』という曲でデビューを果たしています。このデビュー曲のレコードの写真を見ると、ココに衝撃的事実がありました。

 

 

オデコにホクロなし!

 

◆1967年(年齢19歳)千昌夫の若い頃の初大ヒットミリオンセラーシングル歌謡曲『星影のワルツ』の写真にもホクロなし画像

 

さらに、千昌夫さんの若い頃の初ヒット曲写真を見てみましょう。1966年3月発売、1967年秋頃からミリオンセラーとなり、1968年『NHK紅白歌合戦』に初出場のきっかけとなった『星影のワルツ』の時の千昌夫さんがこちらです。

 

 

デビュー以来、ヒット曲のなかった千昌夫さんでしたが、この『星影のワルツ』1曲で150万枚の売り上げを記録する空前の大ヒットとなり、スターの仲間入りを果たしました。

 

よーく見ても、
全くホクロの形跡なし!

 

◆1969年(年齢22歳)若い頃の千昌夫写真にほくろがほのかに出現したシングル歌謡曲『懐かしの人』

 

古い頃からのシングルレコードの写真を調べてみたところ、ようやく千昌夫さんの写真にほくろが出現したのは1969年22歳の時の歌謡曲『懐かしの人』の頃でした。

 

 

遠目では全く分かりませんが、近づいてみると・・・

 

 

あった!

 

◆1970年(年齢23歳)千昌夫の若い頃のシングル歌謡曲『心の旅路』の写真で額と左目の下に黒々としたほくろが出現!同時に後に化ける山林不動産を取得!画像

 

1969年にはうっすらしか分からなかった千昌夫さんの額のホクロでしたが、翌1970年23歳の時のシングル歌謡曲の『心の旅路』の写真を見ると黒々としたほくろが出現しています。

 

 

1年でこんなに変わるもの!?

 

この年、ホクロの出現と同時に千昌夫さんの運命を変える出来事が起こります。

 

 

◆1970年に千昌夫は印象的なほくろを取得した直後に不動産王の種となる仙台市郊外の山林を購入し、事業家としてスタート海外進出も画像

 

シングルジャケットの写真にはっきりとホクロが出現した1970年、千昌夫さんは仙台市郊外にあった5万坪(93,000平方メートル)の山林を約4,000万円で購入しています。

 

 

購入したのは東北新幹線「仙台駅」から車で2時間という距離の宅地ではなく山林という事ですから、購入時には宅地として販売されている一般的な土地価格に比べると比較にならない程の安価での購入だったはずです。

 

この土地は仙台市により、市街化調整区域に編入され、大もうけしたということはなかったが、担保物件としては悪くない土地であった。
引用元:千昌夫の教訓

 

市街化調整区域となると家を建てるのが困難なエリアであるので、この土地の担保価値がどうして「悪くない」のか?ちょっと個人的に?だったのですが、調べてみると、千昌夫さんが手に入れた1970年から「東北新幹線計画」が審議に入り、1972年に着工したことでの利益だったようです。

 


画像:http://pstm.sakura.ne.jp/Ticket/T_17.html

 

土地価格は約10倍に高騰!
当時のお金で4億円の利益を得た

(※当時の4億円は現在の40億円に相当するそうです)

 

千昌夫さんはこの時に購入した仙台の山林不動産を基盤にここから不動産事業家として活躍していくことになります。

 

ホクロの出現と同時に
不動産との関りが発生!

 

 

◆1972年(年齢25歳)に千昌夫はアメリカ人の妻・ジョーン・シェパードと国際結婚!不動産事業の会社も設立。国際的な取引に発展 画像

 

2年後の1972年、25歳になっていた千昌夫さんはアメリカ人歌手のジョーン・シェパードさんと国際結婚をされています。

 

 

松下電器、いすゞ自動車、象印のCMに夫婦共演!

 

同年の1972年には千昌夫さんは「アベインターナショナルベンチャーズコーポレーション」という会社を設立し国内外の不動産の売買取引をはじめています。妻に英語が堪能な女性を選んだことで、不動産の国際取引へのハードルが下がり、拍車がかかったのかもしれません。

 

⇒次ページ【千昌夫の頂点からの転落とホクロの関係が明らかに】

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