石原良純の幼少期家族家系図と兄弟内で最もIQが高い?異質経歴の背景

今回は「石原家」兄弟の中でも個人的にとても大好きな石原良純さんの選んだ「異質の経歴」の背景について調べてみました。

兄貴である石原伸晃さんが表現する石原良純さんという人物の興味深い評価や、幼少期における影響を与えた「石原家」の父・石原慎太郎さんからの教育、叔父・石原裕次郎さん、その他の兄弟の詳細についても調べてみました。

◆石原良純という高学歴『石原家』の次男坊の「挟まれ息子」の苦悩、父親、母親、兄弟のハイスペック家系図が凄かった 画像

 

石原慎太郎さんの結婚後のご家族である「石原家」父親だけでなく息子さんたちの活躍も大変華々しく、各分野で存在感を発揮されてきました。石原慎太郎さんのお子さんのうちお二人は既に政治家としての活躍をされており、現在でも国民からの注目度も特に高い存在です。

 


画像:2019年12月作成

 

石原家が全体に
超優秀で鮮やかなイメージ。

 

しかし、私が昔から何故かいつも興味をそそられるのは、圧倒的に石原良純さんでした。

 


画像:石原良純公式Instagram

 

華々しい政治家になった他の御兄弟のような生き方ではなく、そのような立派で固めの家系に生まれながら、さらには石原良純さん自身だって、おそらくそうした道を選ぼうと思えば選べたにもかかわらず、

完全に別ルートを選択。

そして、石原良純さんは兄弟他たちとは全く異質の土壌において自身の世界観を確立しています。

 

 

マイウェイなのに
ダントツに幸せそうなオーラ。

 

興味を持つようになった理由として、私の父親が同じように男兄弟の「次男」であることも影響しているかもしれません。

 

私の父との共通項が多い人。

 

長男である父の兄(伯父)はというと、時代的なものなのかもしれませんが、とても固くて一家を承継していく責任感の強いタイプの自分にも他人にも厳しい人でした。その時代の成功者でもあり、大企業の取締役まで上り詰めた人で合理的判断が最優先の剛腕組織人です。

 

 

一方の次男である私の父はというと、親の期待長男に全て奪われ可愛がられる役末子の3男に奪われ、真ん中っ子の自分は、幼少期ひねくれていじけて育ったようなところがある、と自身の性質について語ってきました。

 

真ん中っ子 独特の感性。

 

そうして私のの場合は人生最初の挫折をすでに少年時代に体験し、劣等感と共に育っており、親に言われたとおりに母親の親戚の稼業を継ぐ形で夢も早々に諦め、零細事業を承継

 

組織で一切働いていないため、なんというか娘目線でも組織に所属することで得られる社会的な研磨を受けていない人です。ただしおそらくそれ故のユニーク合理性を度外視したところの人間味夫婦共闘意識家族の時間を財産として残した人でした。

 

 

次男で真ん中っこの父親は、頑固者でもろもろユルくマイ判断が多いけれど、ダメな自分や他人を許していくタイプでユニークという現状となっています(笑)。

 

というわけで、
かなり石原良純さんとタイプ的に一致(笑)。

 

と言ってもそれは、現在の一定の「結果」としての姿であって、父親が結婚して間もなく生まれた私の幼少期にはとてもとても大きな葛藤重圧「男としての山場」に苦戦していました。

 

確実な成功パターンがあったのに
それに乗らなかったオレ。

 

 

私の幼少期にあった父の姿は、まだ長男とのかかわりの影響だったのか、その気質に近い「完璧主義」「合理的判断」の人格だったように思います。

 

また、社会の大部分が組織に属して成功する社会において長男よりも有利な学歴を残しながらも、次男であるということでその線路から脱線させられたという意識も強かったのか組織人ではない「劣等感」も私の幼少期には大きなものだったように記憶しています。

 

 

台湾シャンプーw

 

石原良純さんもそういう意味では確実に勝てるレースが目の前にあるにもかかわらず、選ばなかった人だという印象を覚えます。内部を知らないので勝手な事を言っていますが、そういった印象からある時、「この人はとても父に似ているな」と感じることとなりました。

 

ちなみに
顔もちょっと似ていますw

 

 

◆石原慎太郎一家「石原家」の家系図と家族の生まれた年、息子の衣類への子供ごとに指定基準色カラー 

 

まずは、前述の石原良純さんという人が置かれている「石原家」内のポジションをよりはっきりと知るために家系図を作成してみました。

 


2019年12月作成

 

圧巻の華々しさ!

 

そして、「石原家」では子供たちを色分けする風習があったようで、それぞれ息子たちは指定カラーがあり、洋服を色分けして着せられていたという面白いエピソードがあります。各人に指定されていた色は以下の通り(笑)。

 

 

長男:石原伸晃水色
次男:石原良純赤色
三男:石原宏高黄色
四男:石原延啓白色

 

こうしてみると、その指定色通りの個性になっている印象がするのも面白いところです。おそらく、男の子たちは少年時代に泥まみれで遊ぶので大変な量の洗濯物が出てくる中、どれが誰のか分からなくなることも多く、当初はお母様がスムーズな家事の為に始めたことなのかもしれません。

 

◆石原良純の叔父は昭和の名俳優でスター!石原裕次郎。 若い頃に慶應義塾大学経済学部経済学科へ。学生時代に「石原プロモーション」入社の経歴その時何歳? 画像

 

ここからは石原良純さんのご家族の簡単な情報へ移りたいと思います。

まずは石原良純さんからすると叔父にあたり、歴史に残る名俳優として日本全国へ名を轟かせた人物、昭和のスターだった石原裕次郎さんがいます。石原良純さんが石原裕次郎さんの影響があってスター俳優を目指した時期があったのは確かだと思います。

 

 

石原良純は
元「石原軍団」だった!

 

調べてみると、石原良純さんはまだ慶應義塾大学経済学部経済学科の学生時代である1982年石原裕次郎さんが社長を務める「石原プロモーション」へ入社しています。顔だけで合格しそうなしっくりくる選択です。

 

また、石原裕次郎さんも「次男」であったため、どこか石原良純さんとしては同じ次男同士の世界観として共感度が高かったこともあるのかもしれません。(私の父も変な縁ですが、実の父親の弟の道を人生の序盤で目指していました。)

 

 

石原裕次郎さんの方が若くして名声があったように思われがちですが、文才に恵まれていた兄・石原慎太郎さんは1956年(昭和31年)一橋大学在学中の23歳にして小説『太陽の季節』で第1回文学新人賞、そして史上最年少の芥川賞を受賞しています。

同作品の映画化で弟の石原裕次郎さんが俳優としてデビューしています。石原慎太郎さんは「太陽族」として社会現象も巻き起こしていました。

 

 

同じく作家の三島由紀夫さんが亡くなる前後の記録に最も多く登場した人物は石原慎太郎さんだったそうです。また三島由紀夫さんはこんなことを石原慎太郎さんへ託しています。

 

みんな戦後文学の作家たちが左官級になったわけだ。僕は万年旗手で、いつまで経っても連帯旗手をやっていたのだが、今度、連帯旗を渡すのに適当な人が見つかった。石原さんにぼろぼろのをわたしたい。それで石原さんの出現を嬉しくおもっている。この人なら旗手適任でしょう。それで石原さんになぜみんな騒いでいるかというと、原因は簡単なんで、この人はエトランジェなんだね。

三島由紀夫

引用元:http://vivaishiharashintaro.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/3019551-88b5.html

 

石原慎太郎さんという人が半世紀以上もずっと日本で旋風を巻き起こし続けてきたのは託された旗に込められた役目を果たし、友の想いに対し、男として恥ずかしくない生き方をしたいという「長男」らしい責任感からだったかもしれません。

 

また、石原裕次郎さんが俳優として脚光を浴びることとなった映画『狂った果実』石原慎太郎さんが脚本を依頼され、日活に対し「その条件として弟・石原裕次郎を主演とすること」を提示したそうです。

 

やはり、とてもかないっこない
「優秀な長男」が上に居る立ち位置。

 

 

その映画『狂った果実』は大ヒットし、石原裕次郎さんは一躍スター俳優となるわけですが、その中で演じた石原裕次郎さんの役柄は何物にも縛られずに生きる由人とでも言うようなキャラクターであり、これは石原裕次郎さんのもつ本来の精神性とも重なる部分があると当時からのファンの方は綴られています。

 

それって、
石原良純さんとも被るよねw

 

とそれを読んで思うのは私だけでしょうか(笑)

 

 

「海」を愛していたことで有名な石原裕次郎さんですが、のちに石原良純さんはその「海」と寄り添い融合する「空」を愛する気象予報士を目指すことになります。

 

 

◆石原良純が叔父・石原裕次郎率いる「石原軍団」となった年齢は何歳?

 

その時の石原良純さんはというと、「石原軍団」入りが1982年ですから年齢で言うとちょうど20歳という年齢でした。

 

 

ただでさえ濃い、石原軍団なのに
濃さアベレージを上げるほど
人材として溶け込んでいる印象。

 

 

◆叔父・石原裕次郎からの大学入学祝で石原良純に「おそい春」が来ていた 

 

ちなみに石原裕次郎さんからの大学入学祝は日産の『フェアレディZ』だったそうです。

 

 

それが・・・

撮影用の元パトカーw

 

ドラマで使ったパトカーだった!

 

しかしそれによって、全く女っ気のなかった石原良純さんの人生にようやく「春」が訪れることになったそうです。

 

フェアレディZでようやく春が

 

テッパン
港の見える丘公園!(笑)

 

華麗な大学デビュー!

 

◆石原プロに入社しデビューしたきっかけは?映画『凶弾』でまさかのアカデミー賞受賞俳優!?

 

石原良純さんの芸能界デビューののきっかけはナント「病院」でのスカウトだったそうです。

1981年、石原裕次郎さんは信濃町の慶応大学病院に入院しており、そこへお見舞いに行った石原良純さんが石原裕次郎さんから直々にスカウトされたそうで、もし、その時期に石原裕次郎さんが入院していなかったら、「自分は商社マンになっていたと思う」と石原良純さんは語っています。

 

 

映画『凶弾』でデビュー

 

「石原プロ」でも有望視されていたとみられる石原良純さんは1982年映画『凶弾』で俳優デビューし、この作品でその年の日本アカデミー賞新人俳優賞を受賞しています。

 

良純さんってば
アカデミー賞受賞俳優だったよw

 

 

それから2年後である1984年(年齢22歳)の時点では石原裕次郎さん出演の名作ドラマ『太陽にほえろ』にも既に出演を果たすほど、スター俳優として順風満帆なスタートを切っていました。

 

 

◆1987年 叔父・石原裕次郎が亡くなった時の石原良純の年齢は何歳?

 

ところが。

 


「太陽にほえろ」(1984年)当時22歳

 

実はすでに石原良純さんが入団した頃には石原裕次郎さんはスターでありながらもケガと病気にかなり悩まされる状況に至っており(もともと幼少期から肝臓が悪く病気がちだったようです。)

1984年には石原裕次郎さんには肝臓癌が発見され、そこから3年後の1987年52歳という若さでこの世を去っています。この時、石原良純さんの年齢は25歳でした。

 

 

その2年後にあたる1989年石原良純さんは石原プロを退職しています。

 

石原裕次郎さんが築いた「スター」という芸能界でも煌びやかで雲の上の存在のようにカッコイイ属性であったことに対し、

 

石原良純さんがその後確立されていったのは全く逆のアプローチで、視聴者との距離感を詰めていったところにある素朴で人間らしく素直な生き様を見せていくスタイルでした。なんだかそこへの転換が面白い人生だなあと感じます。

 

◆石原良純の両親は父親・石原慎太郎も母親・石原典子(由美子)も元々作家畑!親父は政治家の道へ 幼少期・若い頃の画像

 

幼少期の石原良純さんは父親の石原慎太郎さんは苦手で、母親の石原典子さんの方に懐いていたとご自身で語られています。母親の石原典子さんも著書を出されており、作家です。また、その影響か改名もされていて、改名前は「由美子」さんというお名前でした。

 

 

とてもお綺麗な女性です。母親の石原典子さん自身は父親が戦争に行って、家へ帰らずに戦死してしまった事で、父親には一度も会うことなく大人になったことをとても大きな悲しみとして胸に抱いて育ったようです。石原典子さんの母親・石原まさ子さん(石原良純さんの祖母)の歌を著作の中で紹介されていました。

 

能登川の流れに沿ひしあの家に
移りて間もなく夫(つま)は召されぬ

―石田まさ子詠 『アラアラギ』昭和17年10月号

 

もともと広島県の出身ですが、神奈川県に引越し、鎌倉、金沢八景、逗子で育ったそうで、夫となった石原慎太郎さんとは母親同士が知り合いであり、本人たちも小学校時代からの知り合いだったようです。12歳頃には淡い恋心をいだいていたそうです。

 

 

後に、阿川佐和子さんとの対談において、石原慎太郎さんはその馴れ初めをこのように語っています。

 

まあね、面倒臭いからしちゃったんですよねえ。今でいうラブホテルから二人で出てくるのを親戚に見つかって、おっかないおばあさんにいいつけられちゃった (笑)
それで、呼びつけられて“切れるか結婚するか、どっちだ?”って言われて、しょうがないから”結婚します”って決心しちゃったのよ (笑) 。

引用元:Wikipedia

 

これはひどいww

 

私の父も、母との出会いを「川で拾った」と家族や周りに言うのですが、この時代の男性は女性への愛情を本人以外にはきちんと話すのは美徳ではないのかもしれません。

母親の石原典子さんは4人のお子さんを出産後に慶應義塾大学の法学部を卒業されています。

 

 

◆石原慎太郎の妻子・息子たちが順守した「石原家」の家訓とは?

 

一方、石原慎太郎さんは息子たちにとっては、とてもコワイ存在だったようです。

 

 

その為、妻と子供たちは「石原家3つの家訓」を順守する生活を余儀なくされていたそうです。

 

 

その家訓がこちら。

 

①朝は絶対に物音を立てるな
②朝食は3種類用意せよ(ごはん・パン・麺類)
③子どもとは夕食を食べない

 

慎太郎ファーストな家庭。

 

子供たちの幼少期には父・石原慎太郎さんの作家が生業だったため、「モノづくり」の人間にありがちな夜型生活だったそうなのですが、

 

そのため石原慎太郎さんは日々昼過ぎに起きる生活を送っていたことから、家族全員で父親の睡眠を妨げないように気を配っていたという話がありました。

 

 

家族全員で昼間寝ている父親の為に
生活音に気を付ける日々。

 

今も昔も何より睡眠時間を尊ぶおやじの眠りを何人も妨げることは許されない。
引用元:https://yumeijinhensachi.com/archives/3624

 

 

パパはお昼頃まで寝てて

 

遊びたい盛りの男兄弟というと、お尻にプロペラが装備されて大きな声を出しながら走り回っている印象ですが、石原慎太郎さんは子供たちと一緒に何かするということはほとんどなく、ただただ怖かったようです。

 

帰ってきてもテニスとか行っちゃう。

 

もっと会いたい?とインタビューの女性に聞かれると・・・

 

 

会いたいっていうか…。

 

そうでもなかったらしいw

 

「石原家」では父親が起床するまでは扉の開け閉め、蛇口をひねる音にまで気を配り、つい遊びに夢中になって歓声を上げたり弟を泣かすなどあれば、母から強く叱られる対象だったそうです。

 

「お父さんに言いつけますよ」

 

これが最も怖い母・石原典子さんからの言葉だったようです。

 

 

父親・石原慎太郎さんの教育もユニークで、幼少期である小学生時代から石原良純さんたち男兄弟は女性の裸の写真を見せられて育ったそうです。

 

1972年に石原慎太郎さんは『真実の性教育 学校では教えない人間の性』という著作を出しています。

 

 

◆石原良純は学歴、出身が小学校から慶應義塾大学、幼少期より習い事もたくさんだったが、あまり若い頃は教育されていなかった?合気道も。

 

幼少期の石原良純さんはというと、まず何よりもの特記事項として・・・

 

小さい頃から顔立ちが
劇画タッチ!

 

 

父親の石原慎太郎さんも叔父の石原裕次郎さんも確かに「濃い顔」ですが、それは特に中年以降の顔立ちのような気がします。写真を見ても青年期前後まではまだそこまでではないようです。
しかし、石原良純さんはチビッコ少年の時から

 

安定のゴルゴ系(笑)

 

 

石原良純さんの学歴としては幼稚園の段階で「慶應義塾幼稚舎」を小学校受験をしており、そこからはエスカレーター式で大学まで進学したようです。ご本人の話によると、入学時に勉強をした記憶はあるけれど、次に勉強したのは気象予報士受験の時だったという話です。

 

お坊ちゃんらしく
オール慶応ボーイです。

 

・小学校→慶應義塾幼稚舎
・中学校→慶應義塾普通部
・高校→慶應義塾高等学校
・大学→慶應義塾大学経済学部

 

幼少期の石原良純さんは、学習塾、英会話、絵画教室、水泳などいろいろな習い事をしてきています。その情報だけ見ると英才教育を受けているような印象もするのですが、ご本人の実感では違っているようです。

 

 

自分は教育されていない。

 

ちゃんと教育されている人は何ができるかっていうと、字がきれいで箸がちゃんと持てる。僕は両方できないんですよ。石原慎太郎は教育に)興味がなかった。

あと、孫が可愛くないとは言わないんだけど・・・「20分見てたら同じだから」って。そんな事やっているより、自分の事やっていた方が楽しいから。

引用元:https://yumeijinhensachi.com/archives/3624

 

自分の父親の事なので石原良純さんもあまりはっきりとはおっしゃっていませんが、

大人の自分が楽しそうに何かに熱中している姿を見せるというのが「石原家」の最大の教育だったようにも思えます。

 

 

高校時代は石原良純さんは合気道をやっていたようです。

 

女っ気がない暗めな高校時代

 

自称、暗くて陰気だったらしいw
大学時代はエリート商社マンを夢見ていたそうです。

 

全然子供に興味なんかなかった、と次男・石原良純さんから言われてしまった父親・石原慎太郎さんですが、2005年には『息子たちと私―子供あっての親』という本を出されています。

 


画像:amazon

 

父親石原慎太郎さんは叔父石原裕次郎さんとはまた違う角度の閃光を放つ刺激的な男性であり、作家という土壌において、人間的感性と合理的視点が共存している印象が伺えます。

 

 

息子・石原良純さんもご両親の血を継ぎ(?)本を出版されています。

シャツの裾ももちろんイン!(笑)

 


画像:Amazon

 

そのタイトル『こんなに楽しい気象予報士』

父・石原慎太郎さんが哲学的な感性で人間としての葛藤や苦悩や感情、人間的ロマン、はかなさや美しさを描く中、次男・石原良純さんが世界に投げるものはいつも安定した劇画タッチの顔立ちと「楽しさ」であるところが面白いところです。

 

「愉快」にフォーカス。

 

 

ある研究者が家族構成員は後から生まれた者が家で足らない役割を補充して性質にしていくので基本的に役割は被らないと語る文章を読んだ記憶があるのですが、こうして見ていくと面白いように「石原家」でもその役割がバラついています。

 

家庭内も分業。

 

 

◆石原良純の兄弟と自宅がハイスペック!兄貴も弟にも政治家が誕生!4男は画家!父親・石原慎太郎に隠し子の養子?5男の子供もいるという噂は?画像

 

幼少期の「石原家」の自宅にはお手伝いさんがおり、大きな逗子のお屋敷に家族で住んでいたようです。石原慎太郎さんが32歳の時に建てた大きな家でしたが、兄弟4人はひとつの部屋で共同生活をしていたようです。

 

そういう家を造りたい。

 

逗子に住んでいたため、「石原家」の兄弟はヨットに乗ったり、海外旅行へも行く優雅な幼少期だったようです。

 

 

絵に描いたような
優雅な一家。

 

◆石原家 長男・石原伸晃と三男・石原宏高も若い頃慶応大学卒の学歴で政治家として活躍。学歴と政界入りの年齢は?

 

石原慎太郎さんのお子さんのうち長男石原伸晃さんと三男の石原宏高さんのお二人は政治家としての道を選んでいます。

 

 

特に長男の石原伸晃さんは5歳離れた次男石原良純さん以下2歳おきに誕生していく弟たちとは違って、

 

石原慎太郎の意思を継いでいく後継者としてまずは初動として弟たちを管理統率する存在になるべく教育されていたことが見受けられます。

 


画像:amazon

 

御兄弟の幼少期の写真を見ても下の兄弟が子供として遊びまわるのを一歩上から見守る雰囲気が漂っています。兄弟でも大人側に居る印象の石原伸晃さんです。

 

兄弟を指揮統率するのは
長男・石原伸晃

 

一方、この写真でよく見るとホッコリするのは石原良純さんは子供側の番長として弟たちの面倒を実際に体を張って見ている印象があることでしょうか。

 

弟たちの実質の世話係は
石原良純だったのかもしれない。

 

 

こう考えると色々と話が繋がっていきます。

父親の石原慎太郎さんは石原伸晃さんの子育てをし、それ以降は長男の石原伸晃さんに丸投げ(笑)

 

 

だから石原良純さんは「父親から教育されたことが無い」という印象だったのかもしれません。

 

また、小学校時代には長男・石原伸晃さんにいじめられていたという話もバラエティ番組で語られていますが、それは「いじめ」ではなくて教育係からの指示だったかもしれません(笑)。

 

 

お兄さんにも
「石原家」独特の愛嬌

 

長男石原伸晃さんは慶應義塾大学文学部社会学科(都市社会学専攻)を卒業した後は日本テレビへ入社します。33歳の年となる1990年からは政治家としてめざましい活躍を遂げ、日本を動かしていく人物に成長しました。

 

1996年、通商産業政務次官に任命(第2次橋本内閣)
2001年、規制改革担当大臣に任命(第1次小泉内閣)初入閣

 

ちなみに父・石原慎太郎さんの
初当選は1968年(昭和43年)35歳
参議院選でした。

 

 

つまり、長男の石原伸晃さんは父よりも2歳若い年齢で政界入りを果たしています。そんな優秀な石原伸晃さんですが、石原良純さんについて興味深い発言をしています。

 

良純がうちの家系で一番IQが高い。だから何を考えているのか分からない

引用元:https://yumeijinhensachi.com/archives/3624

 

また、石原伸晃さんは別の場面で叔父の石原裕次郎さんがまだあのまま生きていたらどのような転身をその先でしただろうかということを考えた時に「いくら誘われても政治家だけには絶対にならなかったでしょう」と語っています。

 

3男の石原宏高さんも慶應義塾大学経済学部経済学科卒業後、1988年、日本興業銀行(現みずほフィナンシャルグループ)で働かれた後、2005年(年齢41歳)で衆議院選で政界入りを果たしています。

 

 

◆石原家 4男・石原延啓は父親のレアな血を継ぎ芸術家肌で画家へ。学歴は?

 

もう一人、私も今日まで失礼ながら存じ上げなかった「石原家」の四男、石原延啓さんという方がいました。

 

 

もちろん慶応ボーイ。

 

石原延啓さんは石原良純さんと同じくオール慶応育ち慶應義塾大学経済学部卒業後、スクールオブビジュアルアーツ(アメリカ合衆国 ニューヨーク)ファインアート科もご卒業されています。

 


画像:https://www.nca-g.com

 

父親の石原慎太郎さんが東京都都知事時代に『トーキョーワンダーサイト』、2017年に改称された現在の名称で『トーキョーアーツアンドスペース(Tokyo Arts and Space)』略して『TOKAS』という、東京から新しい芸術文化を創造し、発信していくという東京都による事業を発案、開始しています。

 

 

若手クリエイターの支援と育成、国内外への発表と交流等を目的としての活動でした。個人的には私自身が美術畑に居た頃もあり『美術』という抽象的で大きな豊かさをもたらす財産が、

 

日本では非常に存在価値として評価が低く、一般に対して浸透も確立していないため、この国の豊かさを多角的に強固なものとしていく上でとても面白い取り組みだと思ってみていました。

 

 

しかし、石原慎太郎さんの4男である石原延啓さんがこの『トーキョーワンダーサイト』事業の「キュレーティングアーティスト」(学芸員)として委託されたり、

 

拠点のひとつであるトーキョーワンダーサイト本郷のステンドグラスを石原延啓さんが原画を描いたことなどから父親・石原慎太郎さんの身内へ対する優遇、都税の私物化という視点ばかりが取りざたされ

 

本質的な「この国と美術」「豊かさへのアプローチ」という観点で話があまり展開しなかった点が残念なところでした。

 

 

調べてみると色々、4男・石原延啓さんは非難の的になっていますが、美術と無縁な人からは「現時点でパッと見めぼしい受賞歴もなく、評価されていない画家を子供だから優遇する」というところに攻撃が集中しているようでした。

 


画像:https://www.nca-g.com

 

アートって何?

ちょっとこの批判の感覚自体が個人的には「面白い奇妙な論点のズレのある意見だな」と感じました。美術の豊かさを追求していくと評価も見える形での実績「人とつながらなければ何も意味を持たない」というところに行きつき、

 

一人一人がもつ感性を尊いものと改めて思えたり、自己と他者の感性をつなげていくコミュニケーションツールとして豊かさが発生して膨らんでいくところがあるからです。

 


画像:http://kirakiramieta.blog.fc2.com/blog-entry-105.html

 

「アート」って「分からない」という人を
「芸術」という崇高な言葉で
エイって向こうにやるものじゃない。

 

むしろ、このような批判をする「絵の見方が分からない」という発言をしがちな人たちの豊かさを広げる絶好の機会のひとつとして『美術』があり、権威のあるエライ人の作品では達成できない最初の境界のない世界へ提案だったと言えるからです。

 

 

石原良純さんもアートには触れているようです。

 

印象派の巨匠の展覧会しか採算が合わないと言われる日本で、そういう名札ではなくて、「自分の目で選ぶこと」「自分の本能的な感性を知る」という取り組みができる世界の提案だったと個人的には思えています。

 

そういう価値ある取り組みを
人生掛けてやっている若者を
支えていくことがあってもいいんじゃないでしょうか。

 

◆石原家 5人目の子供として婚外子の隠し子で養子の噂の子供の存在。認知はしたの?画像

 

1996年(平成8年)には雑誌『フライデー』の記事によって父親の石原慎太郎さんに「愛人・隠し子騒動」が起こります。1999年4月に都知事選の当選後に隠し子の事実を認めています。

 

 

事実です。20年前のことで、私にとって若気の至りというか、私の不徳というか、そのことについては男として十分の責任を取ったと思います。
引用元:https://nobiciro.com/person/8531/

 

これはいただけませんな。

私自身もシングルマザーなので、「男として十分に責任をとった」という言葉尻に関しては、一度も子供にも会わず、「父親の不存在」を子供に強いておきながら「十分」と断言する姿に関しては疑問を抱かざるを得ません。父親の不存在によって、母親の人生も選択肢を奪われているのですから、なかなか、なかなかの発言かと思います。

 

また、自宅では妻に対してもあのルールを強要してきていたわけです。妻の石原典子さんはこの件が発覚した後にストレスから顔面神経麻痺まで起こしてしまったそうです。

 

時は「明治」ではなく「平成」でした。
そら老害って言われますってw

 

2012年にはその詳細が『週刊新潮』によってさらにスクープされます。

 

 

1981年に相手の女性とは、銀座のクラブ「S]で知り合い、ホステス3人、男性3人で沖縄旅行へ行ったとされています。またその後も石原慎太郎さんの別荘や、東京湾のクルージングなど交際期間があったようです。

 

このスキャンダルをスクープした写真週刊誌は、「愛人は銀座の高級クラブの元ホステスで、二人の間には一九八〇年代はじめに生まれた男の子もいる母子はいま母の故郷の雪深い町でひっそりと暮している。」と報じた
引用元:Wikipedia

 

1980年代初めに誕生したとなると、4男である石原延啓さんが1966年生まれなので、それよりも一回り以上も年齢がしたということになります。

 

調べていくと、相手の女性が24歳石原慎太郎さんが51歳の時に妊娠が発覚し、以後は女性が勤めていた銀座のお店のママ石原プロの幹部が代理となって協議を行ったとされています。

 

石原慎太郎
この時、若いか?w

 

「彼女がこれまで何の仕事をしてきたかは聞いていない。でも、僕から金額は言わないが、養育費も学費も出し、自分では完璧に責任を果たしたつもりです。借金をしたり、物を売ったりして、必死におカネを作った。石原プロが僕の代わりに養育費を払ったかって? それは、ナンセンス。まったく違う…(中略)」

引用元:http://blog.livedoor.jp/rohgai/archives/19924725.html

 

週刊新潮によると、そのお子さんが20歳になるまで月額20万円を養育費として支払っていたという話です。

 

2012年以降には石原慎太郎さんは、そのお子さん(当時30歳)と対面も果たしたそうです。

 

あなたたちのおかげで息子から連絡が来て、今度、初めて会う事にしましたよ
引用元:https://nobiciro.com/person/8531/

 

けれども、第5子の認知に関する情報は石原慎太郎さんが口頭で「認める発言」はあったものの、戸籍上のやり取りの有無に関して触れているものはありませんでした。

 

相手側の女性や親戚は石原慎太郎さんとは「関わりたくない」という立ち位置を貫いてきたこともあり、実際に第5子本人からの意思として認知に関する戸籍上の手続きを求められなければそうしたことは行わなそうな印象です。但し、Wikipediaによると「1994年認知」という言葉だけは掲載されています。事実を認めたという認知か、戸籍上の認知手続きかは不明です。

 

 

何となくですが…石原良純さんがこれを聞いたら

 

「オヤジ、つべこべ言わず認知手続きしてやれよ!」

と言いそうな予感がします(笑)その理由は次の面白いエピソードによります。

 

 

◆都知事選に勝利した小池百合子へ父親・石原慎太郎の代わりに謝罪した次男・石原良純

 

これは余談ですが、石原慎太郎さんは2016年の東京都知事選において小池百合子さんを以下のように罵倒したことがあります。

 

 

大年増の厚化粧がいるんだな、これが。これはね。困ったもんでね。
引用元:Wikipedia

 

それに対して、息子の石原良純さんはというと、小池百合子さんが都知事に当選した翌日の8月1日、テレビ番組『モーニングショー』で月曜コメンテーターとして鉢合わせをすることとなり、第一声から「おめでとうございます」の後、

 

「おそらく小池先生もご存じだとは思いますけど、石原慎太郎というのはああいう人ですので、たぶん謝らないと思いますので、私がかわりに…」と述べ、父の代わりに頭を下げて謝罪。
引用元:J CASTニュース

 

何故か父親の尻ぬぐいをさせられるハメになる次男・石原良純さんなのでした。

 

 

◆石原良純の人生の師匠は3人!「石原裕次郎」「つかこうへい」「五代目・坂東玉三郎」 画像

 

石原良純さんには3人の人生の師匠がいるそうです。その3人の中に何故か父親の石原慎太郎さんが片言も含まれていないところが気になるところではありますが(笑)早速、ご紹介していきたいと思います。

 

◆石原良純の師匠①石原裕次郎:芸能界デビューのきっかけをくれた

 

もちろん、現在の芸能界デビューのきっかけを与えてくれた亡き昭和のスターで叔父である石原裕次郎さんと出会ったことは大変大きな人生の宝だったようです。

 

芸能界デビューは意外な場所で

 

石原裕次郎さんという男性が(自分の父親と違って)どこへ行っても誰にでも大変好かれて俳優である前に人間として、多くの人から人気を得ているということに、芸能界に入ってから一層驚いたという経験をしています。

 

色々な人に親しまれる生き方をしたい、という気持ちをもたらした最大の影響力ある師匠だったと言えそうです。

 

 

◆石原良純の師匠②つかこうへい:演技たるものを教えてくれた一番怖い人+現在の妻と交際3か月でのスピード結婚を名言で後押し!

 

二人目は、「石原プロ」を退社してから8年後にに石原良純さんが芝居を学ぶために入団した「★☆北区つかこうへい劇団」つかこうへいさんのお名前が挙がりました。

 


つかこうへいさん

 

石原良純さんにとっては2点における師匠のようです。1点目は当然「役者の原点を教えてくれた人」という内容でした。

 

役者の原点を叩き込まれた。

 

もう一つは、2002年、石原良純さんが40歳の時に兄である石原伸晃の紹介で出会った、現在の妻・幸子さんとの結婚を後押ししてくれた人物であったという事です。

 

つかこうへいの後押しが

 

出会った時には、

積乱雲から雷が落ちたような

運命的な出会いだったとのこと(笑)

 

 

ロケで天気予報やってるみたいw

 

12歳差でありながら、交際3か月でのスピード婚となったそうです。そのスピード婚を背後で後押ししたのがつかこうへいさんのこんな一言だったそうです。

 

 

おまえな、人には騙されてみるもんだぞ。

―つかこうへい

 

要するに、用心して生きていって、疑ったり騙すくらいだったら騙されるほうが(男としてカッコ)いいじゃないか。という話だったそうです。

 

つかこうへい、
今日まで知らなかったけど
かっこいいw

 

「奥さんはえらい!」

 

そして、もっと素晴らしいことは、その結婚当時よりも、今の方が石原良純さんと奥さんの幸子さんは仲良くて最高潮だという事です。その後、ご夫婦は2人のお子さんにも恵まれ、1男1女のお父さんだそうです。

 

 

◆石原良純の師匠③:人間国宝・五代目坂東玉三郎は「天気予報の師匠」気象予報士の資格を取得後に空間を想念を掴むことに成功!?

 

五代目・坂東玉三郎さんが30代後半だった頃、色々な方へ授業をしていた時期があり、石原良純さんもそれを受講された一人だったようです。

 


坂藤玉三郎さん

 

その授業の中に、「空間・範囲を想念で掴む」という授業があったらしいのです。

 

 

 

それを石原良純さんはのちに「天気予報に使っている」と語っていたというお話をされています。石原良純さんはというと、35歳で気象予報士の資格に合格していました。

 

35歳で気象予報士の試験に合格

 

その私たちからすると、「???」な回答を聞いた五代目坂東玉三郎さんはというと、とても石原良純さんが掴んだ「もの」について感じ取ったようで、このように話されています。

 

それは非常に彼なりに掴んでいて、
小さいところから大きいところへ広がる、天気も地球全体、宇宙全体からくるところを一転で伝えるっていうところでね、今分かったんですよ、って言ってましたね。

ああ、あの時わかってたんだなと思うし、実際にこうして仕事に役立てて貰えて嬉しかったと思っています。

引用元:『誰だって波乱爆笑』

 

素晴らしい作品を作ってもらいたいと思います。

 

ちょっと私のIQが足らないのか?理解の難易度が高いお話でした!(笑)

 

◆「石原家」次男・石原良純の現在までの異質経歴の背景まとめ 画像

 

こうして改めて見てみると、石原良純さんだけが父・石原慎太郎さんの持つ本質的属性と全く異なるポジションにおり、どちらかというと叔父である石原裕次郎さんや幸福力にたけた人たちの土壌から影響を受け、現在の世界観を確立していることが分かります。

 

 

しあわせにフォーカス。

 

そこで響いてくるのが長男・石原伸晃さんが言っていた、「良純が一番IQが高い」という言葉と「(石原裕次郎さんは)いくら誘われても政治家だけには絶対にならなかったでしょう」という言葉です。

 

これが最も現在までの石原良純さんという男性の選んだ生き方を象徴したものになっている気がします。

 

 

ここまで調べてみて思ったのは、私の父はというと、石原慎太郎さんと石原良純さんの間のMIXという印象でした(笑)。

当初父は、石原良純さんに似ているのかな、と始めた今回の記事でしたが、それはここ数年の「晩年期」に突入して現れたものであって、ワンマンで亭主関白で男尊女卑傾向な石原慎太郎さんの性質は父の基本指針とそっくりでした(爆)

 

この辺は長男だからというより、
時代背景なのかもしれません。

 

もう一つ、最後の最後にとっておいたセンセーショナルな情報としては、兄弟構成の研究家のデータによると、「真ん中っ子」は最も家族の中で誰とでも話ができる柔軟な性質を備える傾向にあるそうなのですが、それとは裏腹に意外な事実として、本人は実は「誰にも心を開いていない」という意外な本音があるそうです(笑)

 

 

え!(笑)
「だから何を考えているのか分からない」

 

そう語った長男・石原伸晃さんの言葉がやっぱり最後に心に染みる今回なのでした(笑)ここまで追って考えていくと、それがあってこそ石原良純さんはつかこうへいさんを三大師匠のひとりに挙げ、感謝している部分があるのかもしれません。

 

IQが高い人はもしかすると
共生と共有を模索するのかもしれない。

 

「空間・範囲を想念で掴む」

 

一応、最後に
あまり次男・石原良純さんにはそこまで尊敬されていないことが今回分かってしまった、家長たる石原慎太郎さんの言葉をそれでも最後に添えておきたいと思います。

 

私はいつも必要以上に兄貴ぶって、裕次郎にたいして家長風を吹かしたと言ったが、兄弟というものは生まれた順序が違うだけで、本質的には対等なのだ。

しかし、同時にその順序を追って生まれたということに、否定することのできない深い意味があると思う。兄弟は他人の始まり、などとも言うが、たしかに兄弟の間にはいさかいもあるし、競争もあるし、嫉妬もある。それぞれがそれぞれにさまざまなコンプレックスを持ち得るものでもある。そしてそれがそれぞれの人生にいろいろ深く美しい襞を作ってくれるものだ。

『易経』にも「父、父たり。子、子たり。兄、兄たり。夫、夫たり。婦、婦たり。しかして家道正し」とある。先に生まれた者の責任、後に生まれてきた者への敬意、わずらわしいこともあるかもしれないが、天が与えた家庭での順序には、人間の思いを越えた大きな意味合いがあるはずだ。

引用元:石原慎太郎 『裕次郎への慙愧』

 

万人から好かれない崇高さとエゴも
それもまたよし(笑)

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