小野小町の七小町伝説まとめ!草子洗・雨乞・通・清水・関寺・鸚鵡・卒都婆

現在でも「美女の代名詞」小野小町ですが、彼女がどんな人、人生だったかはあまりよく知られていません。

今回は、小野小町にまつわる「七小町伝説」の「草子洗小町伝説」「雨乞小町伝説」「通小町伝説」「清水小町伝説」「関寺小町伝説」「鸚鵡小町伝説」「卒都婆小町伝説」について調べていきたいと思います。絶世の美女に残る老後の数々の伝説とは!?

100歳もの老婆となり他のすべてを失った小野小町にも生命力を支え続ける財産として残ったものがあったようです。

◆小野小町にまつわる伝説がすごかった!「七小町伝説」とは?知られざる小野小町の意外な顔と老女の顔

 

小野小町には現在まで数々の伝説や伝承が残っています、最も有名な小野小町の伝説はまだ若く美貌を備えていた時期のものとなり、「百夜通い伝説」と呼ばれているものです。小野小町に恋をした深草少将が、小野小町の元へ100日ほど通い詰める悲恋のお話です。


『当世見立七小町』イラスト

 

一方、「七小町伝説」とは、平安朝の歌人小野小町にまつわる挿話・伝説が、いつの頃からか七種にパターン化されて民間に親しまれ、画題ともなったもので、浮世絵や能の題材にもなっています。

 

その話の中には最も有名な伝説である「百夜通い伝説」のその後のような派生パターンとして残っているものもありますが、基本的には小野小町の和歌の才能を伝説として残したエピソードと、絶世の美女であった小野小町が年齢を重ねた後に老女となった時のエピソードが伝説として語り継がれ、残っています。

 

 七小町とは、平安朝の佳人小野の小町にまつわる挿話・俗説が、いつか七種にパターン化されて民間に親しまれ、画題ともなったものです。

引用元:https://juemon.com/blog/archives/2128

 

「七小町伝説」はその名の通り、7つのお話で構成されており、「草子洗小町」伝説「雨乞小町」伝説「通小町」伝説「清水小町」伝説「関寺小町」伝説「鸚鵡小町(おうむこまち)」伝説「卒都婆小町(そとばこまち)」伝説の七つをいうのだそうです。早速、小野小町の各伝説を見ていきましょう。

 

 

◆七小町伝説①:「草子洗小町(そうしあらいこまち)伝説」にみえる和歌の才能あふれる姿と寛容な小野小町の顔の伝承

 

小野小町七小町伝説のひとつである「草子洗小町」伝説小野小町の宮中の歌合(うたあわせ)での伝説です。能の曲目の一つになっています。

 

 

小野小町を陥れようとして入れ筆をした大伴黒主の罪を

紙を洗って暴き、それでも寛容に大伴黒主を許す話

 

明日の宮中の歌合(うたあわせ)に、小野小町の相手に選ばれた大伴黒主(おおとものくろぬし)は、小野小町の下読みを盗み聞いて、それを『万葉集』のなかに入れ筆をしておく。

 

をはじめ紀貫之ほかの歌人の居並ぶなかで、小野小町の発表した歌は古歌の盗作だと訴えられる。その筆つきを見た小野小町は、草紙を洗いたいと提議し、入れ筆を証明する。

 

自害しようとする大伴黒主を、小野小町は和歌への執心はこうあるべきととりなし、めでたい宴に小野小町は美しく舞い、和歌の道をたたえて終曲となる。能の曲目。

 

自身の最も大事にしている和歌の才能の部分で姑息な手法で陥れようとした相手(しかも男性)に対し、自害しようとすることを止めて「和歌への執心はこうあるべき」等と最高の慰めまで施す小野小町の寛容さには本当に驚いてしまいます。

 

 

この時の小野小町には「水辺の草」という題が与えられており、その時に作られた和歌と言われているものがこちらです。

 

まかなくに 何を種とて浮き草の 波のうねうね 生い茂るらん

現代語訳:若草は誰も蒔きはしないのに、何を種として、このように波の畝に生い茂るのであろう

 

 

「歌への熱い思いがそうさせたのだ」と罪を許される寛容さに

あっぱれな伝説です。

 

 

そんな嫌がらせをされるほどの歌の才能の持ち主だった小野小町が浮かび上がってきますね。

 

◆七小町伝説その②:「雨乞小町(あまごいこまち)伝説 」に神も唸らせる和歌の達人・小野小町の顔の伝承

 

日照りが続き、雨乞いの達人が雨乞いをくりかえしても、一向に雨が降らない。。もはやこれまで…そんなシーンに小野小町七小町伝説のひとつ「雨乞小町伝説」は誕生しました。小野小町が雨を降らせたという伝説です。

 

雨乞小町の原話は、天下早魁の際、小野小町が神泉苑で歌を詠み、その徳でにわかに大雨をふらせたという話。

 

こちらも小野小町の歌が

いかに素晴らしいものかを残した伝説。

 

江戸時代までは神々に歌や踊りを奉納する習わしがあったそうです。

その技を愛でられ、それに感心されると、神々が褒美として雨を降らすという言い伝えが信じられていたそうです。

 

 

文政~明治に活動していた伊場屋仙三郎(いばやせんざぶろう)の名前が残っている一枚には「雨乞小町」の情景がとても鮮やかに表現されています。

 

 

コマ絵は駿雨に波立つ神泉苑の景。柱に凭れる文政期美人の洗い髪は小野小町のおすべらかしの髪型になぞらえ、手にして見人る玉章は、和歌を記す短冊、そしてしどけなく引っかけた表服は十二単衣にそれぞれ見立てられています。模様の天翔る応竜が題材によく合い全体にスッキリとした新鮮な画調と色気とが、快い効果を見せています。

国貞 吉原七小町・雨こひ小町
大判錦絵 揃物 36.9×25.4 cm
落款所蔵庖需國貞両 板元:若狭屋与市 極印

引用元:https://juemon.com/blog/archives/2128

 

浮世絵においては「雨乞小町」は特に多く用いられ、その大部分が、江戸庶民らしい美人風俗の見立ての図様に置きかえられています。この図もその一つ。吉原の名妓であった女性の艶姿に七小町をオーバーラップさせた所が鑑賞の主眼となります。

 

「小町」が美人の代名詞だったのは江戸時代も同じ。

 

 

したがって、日照り続きの時には、神の御心にかなうような雨乞いの歌が求められました。いくつか、有名な歌があるようなのですが、その歌の中に小野小町の歌があります。

 

ことわりや 日の本ならば 照りもせめさりとては またあめが下とは

ちはやふる 神もみまさば 立ちさばき 天の戸川の 樋口あけたまへ

 

小野小町の歌が詠まれると、途端に一天にわかにかき曇り、たちまち待ちに待った雨が降ってきたという伝説が「雨乞小町」伝説です。

 

 

小野小町は歌だけでなく、浮世絵の題材としても発展し、それぞれ名を残すなど、その存在が与えた功績はすごいものがありますね。

 

 

 

神々も小野小町の歌に聴き惚れて、本当に褒美の雨を与えてくれたのかもしれませんね。

 

 

 

◆七小町伝説③「通小町(かよいこまち)伝説」に小野小町の亡霊と恋人・深草少将の怨霊の顔の伝承

 

こちらも小野小町吉原七小町伝説のひとつ「通小町」伝説小野小町の伝説の基本形である「百夜通い」伝説の続編のような伝説です。

 

 

深草少将は怨霊、小野小町も亡霊になっており、

亡霊と怨霊が僧のおかげでまさかのハッピーエンドを迎える伝説w

 

 

京都・八瀬(やせ)の山里で一夏の修行[夏安居(げあんご)。九十日間籠もる座禅行]を送るのもとに、木の実や薪を毎日届けるがいました。が、問答の末に名を尋ねると、女は、絶世の美女、才媛であった小野小町(おののこまち)の化身であることをほのめかし、姿を消しました。

市原野に赴いたが、小野小町を弔っていると、その亡霊が現れ、からの受戒を望みます。そこに、背後から近づく男の影がありました。それは小野小町に想いを寄せた深草少将の怨霊でした。執心に囚われた深草少将は、小野小町の着物の袂にすがり、受戒を妨げようとします。

 

はふたりに、百夜(ももよ)通いの様子を語るよう促します。深草少将からの求愛に、小野小町は、百夜通って、牛車の台で夜を過ごせば恋を受け入れると無理難題を出します。深草少将はどんな闇夜も雨、雪の夜も休まず、律儀に歩いて小野小町のもとへ通いました。そのありさまを再現します。

 

百夜目。満願成就の間際、まさに契りの盃を交わす時、深草少将は飲酒が仏の戒めであったことを悟り、両人ともに仏縁を得て、救われるのでした。

 

続編でふたりが救われてよかったです。

 

◆七小町伝説④:「清水小町(しみずこまち)伝説」に小野小町を想う元恋人・在原業平の顔の伝承

 

こちらは絶世の美女小野小町が老い始めた頃のお話となる、七小町伝説のひとつ「清水小町」伝説です。

 

都で年老いた小野小町は、故郷をなつかしく思い、再びたどりついたところが上岩川の小野村だったといいます。この上岩川の岸辺に冷泉があり、小野小町もこの冷泉のくんで使ったので、後世小町の清水とよびました。そこでの伝説です。

 

 

在原業平が小野小町に出家を勧める名シーンのある伝説

 

 

年老いた小野小町は”関清水”と呼ばれる地で暮らしたとされ、それを基に描かれたのが”清水小町”です。

ある日在原業平小野小町の住む小さな庵を訪れます在原業平から仏教へ帰依することを薦められた小野小町は、諸国めぐりの旅へ出ます。

 

この話はもし、現実に何かしら基づいているのであれば、小野小町の人生の中でとても印象的なシーンの一つだなと思います。というのは、イケメンプレイボーイで美人にしか興味のないスケコマシの(言い過ぎw)在原業平が、わざわざ老婆になった小野小町の住む郊外まで出向き、仏教への出家を勧めているわけです。

 

 

在原業平は、情がアツイいい男。

 

美人を片っ端からアタックして落としていった在原業平ですから、おそらく若い時代には絶世の美女小野小町ともそれなりの恋心も交わしあったことでしょう。その小野小町に対して、老いた後にもこうして誠実な思いやりや人間性を見せるというのはの在原業平オトコマエっぷりがよく分かるエピソードだなと思います。

 

また、在原業平も歌人でしたから、それだけ小野小町に対し、「美女」を超えた人間としての尊敬や同じ時代を生きた親愛や情といったものがあったのかもしれませんね。別の伝説においても在原業平はもう一度登場することになります。

 

が、これ、
もしかしたら小野小町の妄想かもw

 

在原業平小野小町仏教へ帰依することを勧めたあと、ふっと消えていきます。小野小町自身もは、これは観音菩薩の教えであると悟ったと言いますから、小野小町在原業平への想いからこのような幻覚を見た可能性もあります。

 

小野小町の中で
在原業平が特別な男性だったことは確か。

 

ともかく、そこから小野小町は流浪して、陸奥の玉造小野の里にたどり着き、そこで命を終えたとも言われていますし、最期の場面で在原業平に再会したという伝説もあります。

 

 

年老いた小野小町が救われる道を在原業平が指し示してくれたのですね。愛やね。

 

◆七小町伝説⑤:「関寺小町(せきでらこまち)伝説」に小野小町老婆老女の顔の伝承

 

こちらも七小町伝説のひとつ「関寺小町」伝説ですが、古くは『小町』とも呼ばれたそうです。小野小町の老化がかなり進んで、老婆になったころの伝説です。

 

能の最奥の秘曲とされており、宗家以外の弟子家に許されたのは、宝生(ほうしょう)流、喜多(きた)流では大正以来、金剛(こんごう)流では明治から上演されていないのだそうです。それほど重く扱われてきた能なのだそうです。その元となった伝説です。

 

 

華やかな昔と
現在の対比
老女になった小野小町の深い嘆きの伝説。

 

近江(おうみ)国、関寺のが和歌の話を聞くため、稚児(ちご)を伴って、あたりに住む老女の庵を訪れる。和歌の物語の端々から、たちは老女小野小町の成れの果てと知る。

 

華やかであった昔の述懐と、落魄(らくはく)の現在との対比が語られる。七夕(たなばた)の祭りに招かれた小野小町は、稚児の舞にひかれて、思い出の舞を舞い、昔をしのぶが、明け方の鐘の音とともに庵帰って行く。山に捨てられた老女の霊の『姨捨(おばすて)』、地獄に落ちた老いた舞姫の『檜垣(ひがき)』とともに「三老女」とよばれるが、それらに比べ、劇的な起伏は極端に少ない。

 

しかも現在能で書かれた作品だけに、その淡々としたなかに、深い老女の嘆きと、昔の華やかさを描くことは、至難の業である。

 

美貌は失われても歌の技量は老婆になっても失われていない小野小町が印象的です。

 

子どもたちに和歌を教える老婆となった小野小町のお話です。

 

 

◆七小町伝説⑥:「鸚鵡小町(おうむこまち)伝説」に残る小野小町の和歌の能力と老婆老女の物乞いの顔の伝承

 

こちらも七小町伝説のひとつ「鸚鵡小町」伝説ですが、小野小町の老化っぷりが描写として激しくなってきます。老いて零落した小野小町が帝の御詠に対し鸚鵡(おうむ)返しの返歌をしたことを描いたという伝説です。

 

『関寺小町』『檜垣(ひがき)』『姨捨(おばすて)三老女に次ぐ秘曲として、能では大変重く扱われているということです。

 

 

小野小町が、100歳に及ぶ老婆で物乞いになっている

しかし和歌の能力だけは、全てを失っても健在という伝説

 

百歳に及ぶ老残の小野小町に、帝から哀れみの歌が下賜される。「雲の上はありし昔に変らねど見し玉簾(たまだれ)の内ゆかしき」。

小野小町は「内ゆかしき」と一字をかえるだけの鸚鵡返(おうむがえ)しの返歌に、かつての才気をみせ、勅使の求めに応じて和歌の道を語り、昔をしのぶ舞を舞う。

小野小町が人に物を乞(こ)う生活の悲惨さを背景にしながら、温雅な叙情を漂わせる。

 

この歌の意味が一字でどう変わったのかを解説しているものがありましたので念のため引用します(笑)。

 

雲の上はありし昔にかはらねど見し玉だれの内ゆかしき
   (宮中は、あの頃の昔と何も変わりなしないけれど、
    あなたの見た、私たちのいる御簾の中が見たくはありませんか?)

 

雲の上はありし昔にかはらねど見し玉だれの内ゆかしき
   (宮中は、あの頃の昔と何も変わりなしないけれど、
    私の見た、あなたがたのいる御簾の中を見たいです)

 

老いて昔の美貌は衰えても、小野小町の歌のセンスや技術だけはずっと小野小町の側に残ったのですね。

 

◆七小町伝説⑦:「卒都婆小町(そとばこまち)伝説」に小野小町の老婆老女で半狂乱の顔の伝承

 

最後の七小町伝説となりましたが、「卒都婆小町」伝説です。能をする者にとって、「ソトバ」は特別な曲なのだそうです。「卒都婆小町」は親しみをこめて「ソトバ」と呼ぶのだとか。

 

 

「百歳に一歳足らぬ九十九髪」(ももとせにひととせたらぬつくもがみ)と謡いますが、九十九歳の老女になりますので、「卒都婆小町」の類いの数曲を「老女物」と呼び、重い習いの曲として扱っているのだそうです。そのお話の元となった伝説です。

 

100歳近い物乞いの小野小町が僧に説教

小野小町は深草少将の怨念が憑き半狂乱となる伝説

 

小野小町は百歳近い老女となり、昔に比べて今の自分の老衰を思い、都の人目を恥じ、都を出ます。疲れて朽木に腰をかけて休んでいます。それは卒塔婆が朽ちたものでした。通りかかった高野山のは、教え諭して退かせようとします。

 

老女と問答をし、ついには、もともと本来無一物であり仏も衆生も隔てないと、反対にに諭します。は「誠に悟れる非人」と頭を地につけて三度礼拝します。

 

老女は小野小町と名のり、昔にひきかえた有様を恥じます。今日の命もわからないのに明日の飢えを助けようと粟豆の乾飯を袋に入れ首にかけ、垢や脂の衣の袋を後に負い、白黒の慈姑の籠を肘にかけ、破れた蓑、破れた笠、袂も袖も朽ち、路頭に迷い、人に物を乞う。

その有様を語るうちに、狂乱の心になり、に対し声を上げます「なう、物賜べなう、おなう」物を下さい、と。驚いたが「何事ぞ。」と尋ねると、小野小町は「小町が許ヘ通はうよなう」小野小町の所へ行く、と。

 

が尋ねると、小野小町に心をかけた人の中でも殊に思いの深い、深草の四位の少将が憑いたと答えます。ありし日の、深草少将小野小町の許への百夜通いの有様を語り、あと一夜で死んだ深草少将の怨念が憑き添いて、小野小町は狂乱します。

それにしても後の世を願う事は真であり、小善を積み、仏身となるように、花を仏に手向け、悟りの道に入りましょう。

 

深草の少将の怨霊に小野小町が晩年取り憑かれてしまったパタンの伝説ですね。

 

 

下の画像は「卒塔婆小町」で使われた能面のイラストです。

深草少将との話に絡み、以後小野小町の晩年に関するものは、悲惨な伝説も少なくないです。夫も子も家もなく、晩年になると生活に困窮してしまい乞食となって道端を彷徨った伝説だけではありません。

 

 

ススキ原の中で声がしたので在原業平が立ち寄ってみると目からススキが生えた小野小町の骸骨があったなど、華やかで絶世の美女と名前を轟かせた若い時の姿とはかけ離れたような伝説がいろいろ残っています。

 

絶世の美女のなれ果ての姿が痛すぎるww

 

 

艶は人間の捨てきれぬ心。

 

 普通、年を重ねた女性の装束は、色無(イロナシ)の装いとなります。色とは紅の事で、落ち着いた深い色合いになっていきます。当然の事に、老女物は赤い色は使う筈がないのですが、実は目立たない所に赤い色を使ってもよい心得になっています。

「艶を忘れぬように」という「教え」になっているのですが、根本には「艶」即ち「人間の捨てきれぬ心」、これが残り、しかし枯れた態である

表面は、このような事かと思いますが、これはなかなか、特に若く活気に溢れている頃には、本当にわかるものではない様に思います。

 

小野小町が、百夜通いの序盤に方針を中止して、エリート街道を走る深草少将と一緒になっていれば・・・ということを言っては元も子もないでしょうか(笑)?(※しかし、深草少将は実在の人物ではなかったと言われています)

 

 

 

今回は小野小町に関する色々な伝説のことをまとめました。

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