筋肉少女帯・大槻ケンヂ若い頃暴れる精神で病気。現在ぽえむで全てが統合

「筋肉少女帯」大槻ケンヂさんについて、若い頃から現在までを調べてみました。追いかけるように同じ時代を接点をほとんど持たずに生きた自分が、今、多分同じ目的地に到達していることに正直、驚きを隠せません。

今回はそこに辿り着くまでの大槻ケンヂさんの音楽活動や精神的葛藤と暴れる内側の感性との闘い、各活動について追っていきます。長い記事になりますが、最後の項目へ辿り着いていただきたいなと思います。

◆大槻ケンヂは若い頃から内面の感性と対峙し続けた多面体の姿 画像

 

大槻ケンヂさんというと、ボーカリストで作詞家、作曲家、著作家、小説家、随筆家、評論家、ギター・ベース奏者という様々なジャンルで活動をされており、そのように各プロフィールとしても紹介されている人物です。

 

 

いったい何なの?どうして?という印象が否めないのですが、結局のところ後付けでできたそれらカテゴリ―すべてに属し、全ては全てでないという「生きるふしぎ絵」のような無常観と真理に対してとてつもない精度での一致を純粋に追いかける生態をされているのかと思います。

 

全部、真理とはちがう。
という潔癖性は若い頃から

 

「アングラ」に笑いを足すと「サブカル」になる

大槻ケンヂ

 

60年代~80年代の「裏側」のカルチャーがほとんど濃縮され放出されている。具体的には寺山修司プログレガロ系アングラパンクニューウェーブである。いまや僕たちは、そういったカルチャーを大槻ケンヂというフィルターを通して理解していると言っても過言ではない。
引用元:https://note.com/indiscipline/

 

私自身は色々な意味で大槻ケンヂさんかなり近い世界で生きていながらも、これまで大槻ケンヂさんの音楽作品と人生で接点を持ったのはほぼなく、たった1度だけ本を手にしただけ、それは1994年に発表された小説『くるぐる使い』のみです。

 

 

私の友人に強烈な大槻ケンヂさんファンの男性が一人いた為、紹介された本であり、半ばいやいや読み始めたのに(スイマセン)、とても感度の高い活字にどんどん引き込まれていったことを覚えています。

 

話の内容は「くるぐる」が出てきた話、としか今ではもはや記憶にありませんが、とても素晴らしい文学書だったという読み終わりの感動と同時に、何となくそれでも自分の感性をコッチの方に使ってしまうのはいけないという気持ちが当時の私にはあったように記憶しています。

 

「電波系」という言葉の生みの親

 

その時代、私は私で自分の事に精いっぱいで既に迷子だったので、そこから大槻ケンヂさんの世界観に足を踏み入れようものなら遭難するだろうというような危機感です。

 

 

今回は、あれから早25年近く経って、私自身に精神的余力ができたことと、私のかつての友人があの時代に何を見て、大槻ケンヂさんの何に強烈に惹かれていたのかを知りたいと思い、大槻ケンヂさんについて調べていくことにしました。

 

 

◆大槻ケンヂの若い頃から今現在までの髪型・ひび割れメイクの理由は「デビルマン」 画像

 

私が大槻ケンヂさんという人物を最初に認識した時にはすでにヴィジュアル系ロックバンド「筋肉少女帯」のボーカルという状況で左顔面にヒビの入ったメイクも施されていましたが、そこまでにも段階を経て変化していたようです。

 

 

元々はひび割れというコンセプトではなく、デビューアルバムである『仏陀L』の頃に大槻ケンヂさんが大好きだった漫画『デビルマン』のマネをして目の下へ縦のラインを入れたことが始まりで派生したものなのだとラジオで語られていたようです。

 

調べていくと大槻ケンヂさんは、「音楽」よりも「文学」に元々親和性のあるミュージシャンのようで、楽器は苦手で歌詞にその精神性とエネルギーを投入してきたことで注目された方のようです。歌詞の中に時代を斜めのリアルで切り取るコミカルさやシュールさがあり、それこそが時代に対して不安を抱える「平成」を象徴する何かを象った印象です。

 

また、強く影響を受けたという寺山修司さんの言葉が以下の言葉です。

 

実際に起こらなかったこともまた歴史である。

寺山修司

 

この辺りから、もともと大槻ケンヂさん自身も迷子になる程の内面性の構造の複雑さが見える気がします。影響を受けたとされるこの言葉と元々のサービス精神から、面白い時間を提供する為に誇大な表現や極端な脚色をトークに挟んでいったことで、語られている事柄の多くは事実ではないという事も後に言われています。

 

ポスト・昭和。

 

「筋肉少女帯」を追いかけてきた方の情報によると、大槻ケンヂさんのスタイルは髪型同様に大きく4つの時代に分類することができ、それは主にこのような分類になるという事でした。

 

●ナゴム時代
●90年代の筋肉少女帯(メジャーデビュー後の筋肉少女帯)
●特撮
●現在

 

それでは早速、大槻ケンヂさんの幼少期の基礎プロフィールから見ていきたいと思います。

 

◆大槻ケンヂの昔若い頃からの基礎プロフィール!現在年齢・本名・出身地・身長・家族構成・兄弟・出身校は?画像

 

大槻ケンヂさんのは学区から考えると、東京都中野区野方3~6丁目エリアという事になるので西武新宿線「野方」駅周辺のエリアで家の次男として生まれたようです。

 

 

●名前:大槻ケンヂ(おおつきけんじ)
●本名:大槻賢二
●別名:モヨコ、おーつきモヨコ、大槻モヨコ
●出身地:東京都中野区
●生年月日:1966年2月16日(2020年現在 54歳
●身長:178㎝
●星座:みずがめ座
●血液型:B型
●好きな食べ物:カレーライス(日本全国のカレー屋さんに精通)
大槻ケンヂ公式サイト

 

 

芸名である大槻ケンヂの表記を大槻ケン「ヂ」としたのはKENZI&THE TRIPSの八田ケンヂさんを真似たものだと言われています。初期の髪型も影響を受けたように見受けられます。

 

 

◆家族構成は父親・母親・兄はカメラマンの大槻慎一!伯父が映画監督の大槻義一

 

次男だった為、ご両親からは「ケン坊」と呼ばれていたという大槻ケンヂさん。幼少期はとても甘えん坊だったそうです。

 

 

大槻ケンヂさんはとても対照的な性格をしたご両親に育てられたようです。

 

父親:几帳面・堅実・実直・保守的・権威性を重んじるタイプ

 

大槻ケンヂさんの父親は金融機関に努められていたようで、信用組合の理事で支店長という職種柄、「石橋を叩いても渡らない」几帳面な人間だったそうです。後に仕事が無くなっても困らないよう、賃貸アパート経営を勧められた経験もあるようです。

 

 

母親:「イー加減」「アバウト」で大らかなタイプ

 

大槻ケンヂさんの母親の方は父親とは一転して、とても大らかでざっくり、どっしりした安らぎのある女性だったようです。

 

 

「筋肉少女帯」が売れ出した頃に気を引き締めてライブへ行こうと出かける前、「ケンちゃんコロッケ揚げたてだから、食べていきなさい!」と呼び止めるなど、ロックとは対照的な庶民臭さと普遍的な温かみを与えてくれていたお母さんだったようです。

 

上の写真は「ぽえむ」のMVに出てきた写真ですが大槻ケンヂさんのお母さんではないか?と思われます。(違うかもしれません)

 

 

◆大槻ケンヂの兄・大槻慎一に捧ぐ VTRフリーカメラマン。2013年劇団☆新幹線 『シレンとナギ』撮影終了後にサーフィンの海事故で他界?

 

2012年「劇団☆新感線」上映 ゲキ×シネ『シレンとナギ』エンドロールで「大槻慎一に捧ぐ」と出たという事が話題となりました。

 

 

大槻ケンヂさんの2歳年上の兄でカメラマンだった大槻慎一さんは、2012年10月に千葉県富津岬をサーフィン中に海の事故で48歳という若さで亡くなったようです。

 

大槻ケンヂさんは兄の事故についてこのように述べていました。

 

 

きっと、不意の死にも、何らかのグッドな意味合いとのリンクがあるだろうから、バッドタイムからは除外して考えるようにしようと、弟としては思う
引用元:スポニチ

 

この感覚は私にもどこか共通の感覚があります。こうした話を聞くと、アプローチは違っても大槻ケンヂさんと私は実は目的地は近いのかもしれないという感覚を覚えます。

 

 

◆ 少年時代(中野区立北原小学校)運動神経の悪い肥満児の男の子がユーモアと文学的哲学的感性を育んだ

 

少年時代の大槻ケンヂさんは、運動神経が鈍く、肥満児童だったそうです。先生からは「お前は人生でいつもビリっ尻だ!」などと言われることもあり、また、小学校2年生の時には同級生から「明日からイジメてやる」と宣告され、びくびくして暮らす臆病な少年だったそうです。

 

 

けれども、そうした臆病で気弱な性質が、早熟な思慮深さと哲学的な思考へタッチするような方向へと展開したようです。

 

「”我”とは何ぞや?」と自問自答するような文学的な少年だった
引用元:くにまるジャパン

 

一方で、大槻ケンヂさんは運動神経は丸でダメだけれどクラスのひょうきん物』というポジションを獲得し、クラスに一目置かれる存在だったようです。

 

この頃から漫画が大好きで、
漫画家になりたかった大槻ケンヂ。

 

「仮面ライダー」や「マジンガーZ」「ルパン三世」とか、時代を作る子供番組の第1回をほとんど観ることができた。アレは得したと思います。
引用元:音楽ナタリー

 

「アングラ」ならではの感性や才能を育むことにもなり、大槻ケンヂさんは小学校2年生の時には既に制作活動として漫画小説を書き始めていたようです。活字との相性が良かったためか、友人のラブレターを代筆し、保護者会の議題に挙がったという武勇伝を持っています。

 

 

今、中野の「まんだらけ」へ行ったら、その手紙は文豪・大槻ケンヂさんの直筆の代筆ラブレターという事で、いいの価格を提示されるのではないかと思います。40年をかけて、代筆ラブレターの価値を証明し、かつてのPTAへおみまいすることもできそうです。

 

親世代が怒るようなことが
子供を大きくするような仕掛けになっている気さえしてきます。

 

 

◆大槻ケンヂの小学校時代の同級生・占部君と「筋肉少女帯」のCDジャケットデザイナーとして再会する

 

大槻ケンヂさんは大人になってから、小学校時代の同級生・占部君とドラマチックな再会をしています。小学校の卒業文集の表紙を手掛けた天才的に絵のうまい同級生・占部君大槻ケンヂさんは当時漫画家になりたかったわけですからその能力に注目していたのも頷けます。

 

 

大人になってから
担当デザイナーとして再会。

 

「きっと将来ウラッコはデザイナーにでもなるのだろうな。いいなー才能のあるやつは」と幼ごころにねたましく思っていたものだ。大人になって、筋肉少女帯のCDジャケット担当デザイナーとして彼が「久しぶり、オーケン!」と現れた時には本当にぶったまげた。
引用元:集英社

 

人生はこういった、まさかと思うような数奇な運命とつながりで面白い物語になっていきます。大槻ケンヂさんは中学生になってからも自分の人生を変えてしまうような特別な「人」たちに出会っていたようです。

 

 

◆ 少年時代(中野区立第四中学校)は内田雄一郎と出会う。漫画家を目指し、ロックにはまり最初のバンド「ドテチンズ(ザ・ドンズ)」結成へ!サブカル・活字への感性開花も

 

大槻ケンヂさんの中学時代に起こった運命的出会いの局面として、内田雄一郎さんと同級生として出会い、バンド活動を始めることになります。余談ですが、内田雄一郎さんは大槻ケンヂさんのようなディープなオカルト好きではなく、ライトオカルトユーザーだと自称されています。

 

 

大槻ケンヂさんがロックを始めたのは長嶋茂雄さんの薫陶を受けたことによるとされています。内田雄一郎さんとは思春期に大事な人生哲学を語り合う仲となりました。

相変わらず大槻ケンヂさんの体育の成績は「1」だったようですが、それに加えて音楽の成績も「1」だったというのが意外です。大槻ケンヂさんは音や音楽ではなく「波」とそれを宿す「活字」への探求心が強かったとみられます。

 

音楽「1」でも
ロックミュージシャンへ。

 

中学時代になると、さらに大槻ケンヂさんは「アングラ」な体質ならではの世界観や感性を広げていく活動を広げていきます。さらに小学校時代から相性が良かった「活字」に関わる世界として、多くの書籍を読み込んでいたようです。

 

 

SF小説・江戸川乱歩・寺山修司・中原中也・三島由紀夫、谷崎潤一郎、澁澤龍彦・椎名誠など
 
 

1970〜1980年代にヒットしたサブカル誌「ビックリハウス」の常連投稿者(ハウサー)だった。当時の年齢は13歳。「ビッグムーン大槻」というペンネームで、「ジャパベン合衆国」というコーナーでは外務大臣の地位を得ていた。

 

大槻ケンヂさんは当然映画も少年時代から大好きだったようで、出身地である中野区野方からほど近い、高円寺や新宿の名画座へ通って、ポ〇ノ映画もこの頃からたくさん見ていたようです。

 

この頃には
完全に文学的な方向性の感性です。

 

 

1979年(年齢13歳)には大槻ケンヂさんは内田雄一郎さんの誕生会余興で始まった流れで最初のバンド「ドテチンズ(ザ・ドンズ)」結成しています。このバンドは中学卒業と共に解散したという事でしたが、高校へ進学後にこのロックバンド結成がまさかの展開を起こします。

 

 

◆1982年(年齢16歳)出身高校・都立田柄高校1期生時代に「筋肉少女帯」結成!ボーカル・ベース・作詞担当し、後にインディーズデビュー

 

1982年2月(年齢16歳)に大槻ケンヂさんは内田雄一郎さんと改めて「筋肉少女帯(旧名称:筋肉少年少女帯)」を結成することになります。

 

 

大槻ケンヂさんというと、今でもすぐに思い浮かぶことは「筋肉少女帯」というロックバンドの事だと思うので、その活動が僅か16歳という年齢でスタートを切っていたということ自体に大きな驚きを覚えます。

 

 

筋少は’80Sの
ロックバンドだった!

 

大槻ケンヂさんの通っていた田柄高校はアルバイト禁止の都立高校であったため、昼食代として親からもらっていたお金でスタジオ代と映画代にしていたという意外とロックな経歴があります。その甲斐あって、既に16歳(早生まれなのでおそらく高校2年生)で新宿「JAM」などのライブハウスに出演を果たせるバンドとなっていたようです。

 

 

大槻ケンヂさんは当初ボーカル、ベース、作詞を担当していたそうでしたが、ボーカルであるにもかかわらず、ベースを弾きながらだと歌えないという致命的な欠陥が発覚し、本来キーボード担当だった内田雄一郎さんに急遽ベースポジションを代わって貰ってボーカルに専念するという事になったようです。

 

1983年(年齢17歳)に内田雄一郎さん、内田さんの高校の先輩だったケラ(現ケラリーノ・サンドロヴィッチ)さんとYMOテクノポップに感化されたカラオケユニット「空手バカボン」を結成し、ケラさん主宰のナゴムレコードからインディーズデビューを果たします。

 

 

これがきっかけとなり、「筋肉少女帯」ナゴムレコードからインディーズデビューをすることとなりました。

 

どの時点での話かは分かりませんが、元々「筋肉少年少女帯筋肉少年隊という名前だったという情報もあり)」という名称だったものが「筋肉少女帯」へと改名されたのは、人気アイドルグループだった少年隊が所属するジャニーズ事務所からのクレームだったと言われています。

 

ボーカルになったはいいものの、大槻ケンヂさんは声域がかなり狭く、音程も悪く声量もなかったため、楽器できないわ、歌えないわ、でもバンドやっているわというその羞恥心に負けないように、奇抜な恰好をしてスタートを切ったようです。

 

 

「Xは光、筋少は影」

 

ヴィジュアル系の元祖であるようです。インディーズ時代には、顔を白塗りにし、ブリーフ1枚でステージを駆け回ったり、暴れまわっていたようで、それが次第にマニアックな固定ファンを集めることに繋がり、ライブハウスはオタクの社交場と化していったそうです。

 

 

カラオケユニットとして始まった「空手バカボン」もまだ現在も「最後のテクノバンド」として不定期の活動をしているようです。

 

 

◆1985年(年齢19歳)大槻ケンヂはバンドでモテモテ男子へ!ファンの女性と初体験も

 

ところが、インディーズデビューを果たしたころから大槻ケンヂさんは黄金期の超絶モテモテ時代を迎えることとなります。

 

 

ビジュアル系の走りであった「筋肉少女帯」というのロックバンドは1980年後半からの「ロックバンドブーム」という時代の後押しもあって、どんどん特殊なオタク客層を集めてゆき、次第に女性客もたくさん集まる大人気バンドへと駆け上がっていくこととなりました。

バンドの顔であるボーカルを務める男性はその時代はとにかく超絶モテモテだったようです。

 

 

大槻ケンヂさんが19歳の夏には、デビューしてから「筋肉少女帯」の取り巻きはじめた『ナゴムギャル』(ナゴムレコードファンの女の子)と初めての体験をされているそうです。この女の子が、どうやら大槻ケンヂさんにとっては特別な記憶を残す女性となったようです。

 

 

◆1988年(年齢22歳)日本デザイナー学院・東京国際大学を共に中退!その時代に「筋肉少女帯」はアルバム『仏陀L』でメジャーデビューし、バンドの広告塔としてメディア露出で大ブレイク

 

そうして、高校時代にロックバンドという自分の道がぼんやり浮かび上がっていた大槻ケンヂさんでしたが、おそらくは父親「石橋を叩いても渡らない」というほどの保守的で権威主義的な価値観の影響を受けた為と思われる事象が残っています。

 

 

専門学校(日本デザイナー学院)への進学(中退)後に実質2浪で東京国際大学へ進学するという迷走時代を経験。

 

 

子供はどの時代も
親のために生きようとするところがある。

 

こうした迷走時代があった事を想うと、大槻ケンヂさんという人は、元々とても親思いでその想いとその通りに現実が進んでいかないもどかしさの中で苦しんだ時代があったのだろうと感じます。

 

 

昭和って、そういう子供が
多かった時代のような気がする。

 

1988年6月(年齢22歳)の時に、大槻ケンヂさん率いる「筋肉少女帯」はトイズファクトリーからメジャーデビューを果たします。インディーズからのメジャーデビューというのは当時はそこまで応援してきたファンも含め一種の「祭り」のような状況だったと思われるため、

 

 

大槻ケンヂさんもそれを機に、息子に対する親の想いや願いは分かっていながらも自分は自分の道を選んでいくんだという最初の一歩を踏み出す時代だったのかもしれません。デビューアルバムは『仏陀L』でした。

 

 

◆「筋肉少女帯」代表曲シングル『元祖高木ブー伝説』は自主回収されお蔵入りになった問題作へ?高木ブー本人に救われた話。その他『サボテンとバントライン』『踊るダメ人間』 画像

 

アポロンに『文化放送のレコード室にあるの全部ダビングしていいから』と口説かれメジャーデビューしたという大槻ケンヂさん率いる「筋肉少女帯」は瞬く間に人気バンドへ駆け上がっていくことになりました。

 

 

ごめんなさい、私は「筋肉少女帯」とは音楽で接点が全くなかったので代表曲と言われるものも1曲も知らなかったのですが、高円寺や新宿のライブハウスは高校生の頃は出入りしていましたし、「AUNT SALLY」PHEWさんなどが個人でライブをするようになってからは比較的大きな会場も足を運んだりもしていました。

 

 

PHEWさんもどちらかというと「AUNT SALLY」をやっていた若い時代に暴れていて(笑)、そのころから言葉に強烈なインパクトがあり、文学的な気がしますので発信する感性が異なるだけで、型というかスタイルとしては近いものがあるのかも?しれません。

 

遠くない距離感ですれ違い続けるオーケンと私。

 

 

「筋肉少女帯」の代表的シングルは以下だそうです。

 

●『元祖高木ブー伝説』
●『サボテンとバントライン』
●『踊るダメ人間』

 

 

その中でも、代表作のうち『高木ブー伝説』はタイトルからも分かるように問題作として歴史に刻まれています。もともとはインディーズ時代に自主制作されたこのEPが注目されたことで、『冗談画報』『11PM』などへ出演する機会を得た作品であることから、「筋肉少女帯」にとっては出世作となります。

 

 

しかし、許可なく個人名を無断使用したことから問題へ発展。

 

存命中の人物を実名で登場させているにもかかわらず、このレコードは高木本人やドリフターズの所属事務所から許可を得ずに発売された。

(中略)

ドリフターズの所属事務所の関係者を名乗る者から苦情の電話が寄せられ、『高木ブー伝説』は自主回収という形で販売中止となってしまう。

(中略)

筋肉少女帯はメジャーデビューに際して「高木ブー伝説」をトイズファクトリーに再録音したが、今度はドリフターズの所属事務所から正式な抗議が来てしまい、ファーストアルバム『仏陀L』には収録されず、結局お蔵入りとなった

引用元:高木ブー伝説

 

デビューのきっかけをつくったともいえる最初の曲が、ザ・フォーク・クルセダーズ『イムジン河』『悲しくてやりきれない』的エピソードを持っています。この時代を改めて振り返ると、現代の過剰過ぎる「配慮意識」「権利意識」へ至った経緯と時代における価値観の潮目のようなものを感じます。

 

 

時代の潮目にあった曲。
解散危機も!

 

大槻によれば、この一件で筋肉少女帯は一時解散の危機に立たされたが、他ならぬ高木ブーの擁護によって事なきを得たという

引用元:筋肉少女帯

 

なんと、
高木ブーさん本人に
助けてもらっていたw

 

 

やっぱり、
愛の容量が違うよなw

 

個人名である「高木ブー」の所は後年「鼻血ブー」へ変更されて歌われています。

 

 

 

大槻ケンヂさん率いる「筋肉少女帯」の問題作『高木ブー伝説』が色々な問いかけをして、社会的に着地に至るまでの間に若者たちの間ではそのような尖ったスタイルを貫く保身に走らない「筋肉少女帯」というバンドへの姿勢へ注目を増していきました。

 

若者への求心力は
いつも社会理念とは
反するものなのかもしれない。

 

大槻ケンヂさんはこの頃からバンドのフロントマン・広告塔として雑誌対談、ラジオ番組やテレビ番組出演など、メディア露出を増やしていくことになりました。

 

 

人気ラジオ番組『オールナイトニッポン』テレビ番組『徹子の部屋』『さんまのまんま』などへの出演を繰り返すことで、大槻ケンヂさんは全国に周知される存在となっていきます。

 

 

◆1988年(年齢23歳)ラジオ番組『オールナイトニッポン』に出演

 

1988年からはラジオ番組『オールナイトニッポン』パーソナリティーを務めることとなり、音楽や歌詞だけでは伝わらなかった大槻ケンヂさんの独特の世界観とその魅力を膨らませていきます。

 

 

この時代の大槻ケンヂさんの赤裸々な各種のトークがとても話題になっていたそうです。

 

https://twitter.com/yasu_metal/status/951757673137020929?s=20

 

その後、水道橋博士「精神的ストリッパー」と言わせるほどの開放感と解放感漂う世界観が、音楽を超えた新しい魅力的世界を開いていきます。

 

 

◆2013年1月から立ち上がる V系初代たぬきの掲示板「大槻ケンヂ」スレ板が謎

 

2013年大槻ケンヂさんは1夜限りの?『オールナイトニッポン』復活があったようで、その頃に立ち上がった(?)とみられる大槻ケンヂさんに関する掲示板が、そこから2015年10月に至る2000投稿超というマックスの投稿までファンから投稿が続いて終了しており、激アツでビックリしました。

 

 

この頃のヘビーリスナーが2018年に『オールナイトニッポン』復帰を果たした大槻ケンヂさんへ嬉々としてtwitter投稿をしているくらいなので、大槻ケンヂさんのラジオファンもまだまだかなり多いようです。

 

 

●1988年10月5日 – 1989年4月5日 水曜1部 深夜25:00 – 27:00
●1990年6月4日 – 1991年10月7日 月曜1部 深夜25:00 – 27:00
●2018年1月12日 – 2018年3月26日 金曜日19:00 – 20:50(3か月11回で終了)

 

元の時系列に戻ると、このような段階を経て、大槻ケンヂさんは「有名芸能人」になっていきます。

 

 

◆1989年(年齢24歳)映画『ファンシィダンス』1990年『!(アイ・オー)』に出演

 

1989年以降、大槻ケンヂさんは俳優として映画出演も果たします。映画『ファンシィダンス』、1990年『RAMPO』『アイデン&ティティ』『シベリア超特急5』ドラマ『古代少女隊ドグーンV』などへ出演。

 

 

ラジオ出演でもすでに大槻ケンヂさんは「筋肉少女帯」やその音楽の世界観を超えた、個人に属する世界観を広げていっていた雰囲気がありましたが、映画出演や俳優というここまでの活動になってくると、すでに「筋肉少女帯」ロックバンドの窓口、広告塔という域をとっくに超えて、個人としての活動という雰囲気が漂ってきます。

 

 

これは想像ですが、一緒にやっていこうと歩んできた「筋肉少女帯」というグループ内で認知度や収入においても格差が開いていった時代だったと思うので、大槻ケンヂさんが有名になればなるほど、グループ内での調和が難しくなっていったのではないかと感じさせます。

 

また、「精神的ストリッパー」といわれるほどの大槻ケンヂさんは私生活を明け透けにものをいうところが昔からあったようなので、出演したラジオ番組や雑誌の対談などでグループメンバーや関係者についても語ってしまい、トラブルになるという事も多かったようです。

 

様々なメンバーが定着することなく加入と脱退を繰り返す日々。

 

こうしたこれまで大きな精神的に支えであった、近い人間たちとの確執大槻ケンヂさんにとってとても大きな精神的負担になっていったことを感じるような出来事がこの後続いていきます。

 

◆大槻ケンヂの昔20代後半~30代の若い頃は暴れる内面感性との闘いの時代だったようだ 盟友・伊集院光と絶縁。小説家デビュー、女優・菅野美穂と熱愛も?画像

 

1990年前後になるとラジオ番組『オールナイトニッポン』でも盟友として親交が深かった伊集院光さんと「催眠術」に関する議論でぶつかり合い、数年間絶縁状態になるという事が起こります。(後に和解)

 

 

議論になると
本音で語って譲らない者同士

 

でも、あの時代は「大人っぽく」安全運行に向けた理性を持って視聴率や調和に逃げるのではなくて、本音で想いを語るバカバカしくて危なっかしい子供じみたことが通用することが面白かった。

 


画像:twitter

 

こうして、次々にどちらかというと「近かった人々」との確執をあらわにしていく時代に突入した大槻ケンヂさんだったのでした。

 

 

リスナーからも諸々批判が発生。

 

また、「オタク」という言葉が確立する以前、『オールナイトニッポン』のパーソナリティ時代に、今で言うところのアニメオタク達を「アニマー」と名付けて批評したところ、リスナーから反論が寄せられる一幕もあった。

 

 

この時期からは「筋肉少女帯」という音楽活動とは別に大槻ケンヂさんは自己の内面性への問いかけを強化していくような活動へ入ります。「筋肉少女帯」も1990年2月には初の単独武道館LIVEを行い、1989年2月以降は10年間メンバーが変わることもなく安定した活動をつづけたように見えました。

 

 

しばしメンバー安定の「筋肉少女帯」

 

 

◆1992年(年齢26歳)処女小説『新興宗教オモイデ教』文筆活動開始、バンド「大日本仏像連合」もスタートするが、感性が爆発し精神を病みPTSD・強迫性障害という病気で心療内科へ

 

1992年になると、大槻ケンヂさんはますます自身の内側と対峙する活動に入っていきます。処女小説『新興宗教オモイデ教』を発売する年を迎えます。

 

 

この小説は同級生の女の子が既婚の数学教師の子供を妊娠中絶したことでコワレ、おそらく強迫性障害とみられる症状で精神を病み「オモイデ教」という新興宗教にはまって再来するという狂気小説だったようです。

 

ちなみに
地下鉄サリン事件が起きた
1995年より前の作品。

 

これを考えると、だいぶアンテナの精度が良い印象がします。

 

大槻ケンヂさんの最初の文学作品が発表された同年の背景としては、バンドブームが去って経営難に陥った事務所を辞め、翌1993年には「筋肉少女帯」はレコード会社から契約を打ち切られるというピンチを迎えています。

 


1992年『氷の世界』

 

せっかく
バンドメンバーが落ち着いてきたのに
筋少は新しいピンチへ。

 

山あり谷あり。

 

 

その2年後の1994年大槻ケンヂさんは『くるぐる使い』という小説を発表しています。冒頭でお話したように、私が唯一、大槻ケンヂさんの作品の中で関わりがあった作品です。こちらの作品は大槻ケンヂさんが作家として初受賞を果たした作品となりました。

 

 

こうした、少し狂気性のある小説を書いていたからか、日本SF作家クラブの会員でもあるがとなっているそうですが、大槻ケンヂさんは幽霊部員状態というお話があります。

 

第25回星雲賞日本短編部門受賞、吉川英治文学新人賞候補となった。収録作の一つ「のの子の復讐ジグジグ」は「くるぐる使い」に続き第26回星雲賞日本短編部門受賞。
引用元:Wikipedia

 

その後も小説『グミ・チョコレート・パイン』『ステーシー』などや、エッセイとして『オーケンののほほん日記』をはじめとした多数の作品を残していくことになります。

 

 

◆1992年(年齢26歳)に大槻ケンヂはインド・タイへ渡航し、心的外傷ストレス(PTSD)へ心療内科医師からUFO禁止令!うつ症状、心気症を告白、強迫性障害も?

 

最初の小説『新興宗教オモイデ教』が出版された1992年には事務所が経営難になったことや翌年のレコード会社からの契約解除のような「筋肉少女帯」としての不穏な空気感がおそらくあった事で、大槻ケンヂさんの精神はかなりぐらつき始めていたようです。

 

 

ブームが去った後のバンド活動に煮詰まっての気分転換もあり、大槻ケンヂさんは熱い国「インド・タイ」へ渡航しています。

そして…

 

タイで食べたオムレツに入っていたマジックマッシ〇ルームがきっかけで心的外傷後ストレス障害に悩まされる。森田療法による治療を受け、現在では克服したことを明かしている。
引用元:Wikipedia

 

調べていくと元々、大槻ケンヂさんは中学生時代から「うつ傾向にあった」という持病的側面を持っていたことをカミングアウトしています。

しかし、もう少し時間が過ぎた後にはその持病と「いいお付き合い」をしていくことによって、浮き沈みをある程度コントロールできるようになっていったそうです。

 

 

うつ状態って本人としては本当に辛いけれど、ちょっと俯瞰で見ると『笑えね?』っていうところにシフトできるといいと思うんですよね。(中略)
ネタにすることによってコンプレックスが消えたんです。笑いに昇華するっていうのもひとつです。
引用元:ニコニコニュース

 

 

 

大槻ケンヂさんがとても酷かった時期には「心気症」というあまり聞いたことがない珍しい病気を患い、「エ」という文字を見ただけで「エイズ→死」という死の恐怖へ取り憑かれる日々が続いたそうです。

心気症とは(外部リンク)

 

 

また、一部の情報では強迫性障害になったという話もありました。これに関しては情報の正誤は不明ですが、最初の小説に出てくる女の子の症状がおそらくは強迫性障害であったと思われるため、出てきた話なのかもしれません。

強迫性障害とは(外部リンク)

 

一時期は心療内科の医師から大槻ケンヂさんが心酔していた超常現象SF関連からの影響が大きいと判断されたのか?担当医師から「UFO禁止令」を出されていたようです。

 

でも確か、
この頃ふーみんにメロメロだったよね??

 

 

「表面的事実」と「内面が抱えている状況」の乖離は外からは分かりにくいようです。

 

1993年には『UFOと恋人』という8枚目のアルバムを出しています(笑)

 

 

◆大槻ケンヂの作詞曲『高円寺心中』を絡めた都市伝説ミステリー「JASRAC オーケン事件」とは?

 

また、この「筋肉少女帯」8枚目のアルバム『UFOと恋人』の中にある「高円寺心中」という曲が、「オーケン事件」と呼ばれるひとつの都市伝説を残しています。

 

 

JASRACによる
音楽独占管理に対する
問題と批判がニュースであがるときに出てくる逸話。

 

出元が不明であることからミステリー化してしまったこの問題ですが、話の内容としては、

 

大槻ケンヂさんが自身で作詞した「高円寺心中」の歌詞を自身で書いたエッセイに掲載したところ、JASRACから歌詞の使用料を求められ、印税として還元されることがなかった、という内容です。

 

大槻本人が「使用料を徴収されたことはない。都市伝説だと思う」と公式に否定している。
引用元:Wikipedia

 

この話が出てきた辺りで色々と、権利権利とうるさい時代が到来してきたのは確かだと思います。

 

 

◆1994年(年齢28歳)~バラエティ番組『ポイズンガルズ』で10代の菅野美穂と共演!初めての相手?熱愛へ?

 

大槻ケンヂさんは30歳手前で若き日の女優・菅野美穂さんと出会っています。

 

番組『ポイズンガルズ』の中で5か月間共演していたようです。菅野美穂さんが当時女優デビューして1年程であったことや、まだ17、18歳という若さであったことから共演で交際に至り、初めての相手が大槻ケンヂさんだったのではないかという噂があります。

 

 

◆1999年(年齢33歳)「筋肉少女帯」を脱退し新バンド「特撮」を結成。2001年からロックバンド「電車」孤立無援へ

 

ブームが去った後の音楽業界はかなり厳しい時代が到来していたようです。「筋肉少女帯」もレコード会社を数社移籍しつつ、1995年には大槻ケンヂさんはソロ活動を開始。1998年には所属事務所が敬遠破綻するという最悪の状況となります。

 


『タチムカウ-狂い咲く人間の証明』

 

そして、バンド内の不調和がファンを巻き込む形で大炎上を起こし、1999年に大槻ケンヂさんは16歳から活動を続けていた「筋肉少女帯」を脱退することになりました。

 

 

「筋肉少女帯」脱退後に大槻ケンヂさんはすぐに新しいバンド「特撮」を立ち上げますが、とうとう小学校時代からの盟友であった内田雄一郎さんと対立し、内田さんが脱退、絶縁状態になるという悲劇を迎えてしまうことになりました。

 

 

その後、さらにロックバンド「電車」を結成その活動期間を見ると、2001年-2004年10月脱退(活動休止)2014年-現在、となっていることから、2004年辺りが大槻ケンヂさんの不調和のピークだったようです。38歳。

 

 

◆2006年7月(年齢40歳)仲直りの季節が到来「筋肉少女帯」復帰「特撮」のバンド活動休止(充電期間)ギターを始める

 

止まない雨はない

 

 

ではないですが、大槻ケンヂさんの心の雪解けはちょうど40歳を迎える前後に訪れたようです。「筋肉少女帯」時代のメンバーとは疎遠な関係が続いていた大槻ケンヂさんでしたが、イベントなどを通じ「仲直り」し、2006年7月に「筋肉少女帯」へも復帰を果たします。

 

そして、大槻ケンヂさんは40代からギターを始めたそうです。

 

2年前、「部屋のインテリアにギターがあるとおしゃれ」と考えたことがきっかけでギターが好きになり、現在練習中だという。
引用元:サンスポ

 

それまでの大槻ケンヂさんの作曲は鼻歌でイメージを伝えていただけで、それをコードに起こしていたくれていたのはほかならぬメンバーだったようです。ギターを始めたことで色々「プロ」に教えてもらうこととなり、笑いと親密な関係を取り戻すことができたのかも(?)しれません。

 

◆大槻ケンヂの今現在は音楽活動・バンド「特撮」「電車」再始動復活と病気「声帯ポリープ切除手術」からの復活でねずさん?? 今現在ミステリ文庫で統合へ 画像

 

40代を迎えてからの大槻ケンヂさんは「筋肉少女帯」だけでなく「特撮」「電車」と色々な活動を昔の仲間たちと再開する動きができるようになってきていました。

 

 

人生で40代というのは、多くの人にとって「厄落ちしてようやく長いトンネルから出る」という、煩悩から抜けていくタイミングなのかもしれません。

 

 

◆2007年(年齢41歳)「大槻ケンヂと絶望少女たち」始動(アニメ『さよなら絶望先生』録音メンバーの「特撮」も2011年(45歳)「電車」2014年(48歳)バンド活動再開

 

2007年には大槻ケンヂさんはテレビアニメ『さよなら絶望先生』シリーズ出演の声優で構成された絶望少女達(ぜつぼうしょうじょたち)というユニットを結成します。

 

 

声優以外の録音メンバーは「特撮」と同一の構成ということで、危機的だった「特撮」も現在では息を吹き返しているようです。

 

 

なかなか華やか。

 

 

◆2019年『ポケモン』ネズさんとそっくりの話題

 

余談ですが、2019年にはアニメ『ポケットモンスター』ネズさんというキャラクターが大槻ケンヂさんをモデルにしているのではないかととても話題となりました。

 

 

もともと、大槻ケンヂさんはマンガ好きでもあるので、アニメ関係の音楽の仕事への展開が今後も期待されそうです。

 

 

◆2016年5月(年齢50歳)ボーカルなのに声帯ポリープ切除手術!経過は?今現在大丈夫なの?

 

そんな柔らかな日差しが届き始めた2016年5月、大槻ケンヂさんに訪れた次の出来事はまた「病気」。今度は声帯ポリープという病気でした。バンドのボーカルという立場の大槻ケンヂさんからすると音楽活動を脅かす、とても深刻な内容に思えます。

 

 

声帯ポリープの原因としても、声を酷使することが挙げられており、アナウンサーや歌手、教師に多い病気であるようです。ポリープガンになることは一般的にはあまりないようです。

声帯ポリープとは?(外部リンク)

 

2016年5月大槻ケンヂさんはポリープの摘出手術を行い、無事成功し、術後の経過も良好だと報告しています。

 

 

手術台に乗ると、宇宙人アブダクションを思い出してドキドキした
引用元:大槻ケンヂ公式ブログ

 

その後、前代未聞の無言イベント『大槻ケンヂ無言ファンの集い!』というものを行ったというユニークな話もありました。

 

 

◆2018年(年齢52歳)今現在オーケン企画の「大槻ケンヂのミステリ文庫(オケミス)」活動中!ぽえむが素敵。

 

2018年 大槻ケンヂさんは新プロジェクト、「大槻ケンヂのミステリ文庫」(略称 オケミス)というグループ(?)を立ち上げています。

 

 

音楽の企画だと思いきや、ポエトリーリーディングがかなりの規模で入るようです。

 

ビックリするくらい
カッコいい!

 

 

これを最初の1回見ただけで、大槻ケンヂさんの人生の集大成という印象をとても覚えました。

 

多感な文学少年と、暴れる壊れそうなロックシンガーとして外で闘う兵士、UFO・超常現象というこの世界とは別の「声」とつながり合う電波少年別々の色々な人格が融合を遂げた1作です。これはすごい。ちょっと今回、大槻ケンヂさんシリーズを追いかけてやった中で一番コレ感動しました。

 

 

ここに辿り着くために、直近の声帯ポリープすらあったのではないかと思うと、「事実は小説より奇なり」とは本当にそうで、人生は数奇な出来事が起こり過ぎます。そして、やっぱり全て「満ちること」へ向かっているという事を感じます。内側の声、流れに逆らわなければ。

 

ね、過ぎてしまえば 全ては笑い話になるんだ
だから 迎えに行くよ
だから 迎えに行くよと ぽえむに書くよ

―大槻ケンヂ「ぽえむ」

 

 

だから また会えるんだ
だから それまでは ぽえむを書くのさ

―大槻ケンヂ「ぽえむ」

 

今日の日も
きっと、
ぽえむ。

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