今回は世界でその名前を知らない人はいないと思われる独裁者・アドルフ・ヒトラーについて、若い頃に目指したとされる芸術・美術に関する情報を集めてみました。権力を掌握してからの芸術に関する弾圧政策や、その根本にあるアドルフ・ヒトラーという人物が抱える弱さについても言及していきます。
そして、もしもアドルフ・ヒトラーが政治家ではなく画家になっていたらというテーマについても考えてみました。
- ◆アドルフ・ヒトラー20世紀最大の悪人・独裁者が率いたナチス・ドイツの人種主義とは?写真画像
- ◆若い頃のアドルフ・ヒトラーは出自と学業・女性へのコンプレックスを抱えていたらしい。写真画像
- ◆若い頃のアドルフ・ヒトラーは画家を志し美術大学を目指すも美大受験に絵で二度失敗 写真画像
- ◆若い頃のアドルフ・ヒトラーはウィーン美術アカデミーを2度落ちた後に建築家を目指すが、そちらもあえなく挫折 画像
- ◆アドルフ・ヒトラー率いるナチスによって奪われた美術品「退廃芸術絵画」が2018年映画『ヒトラーVSピカソ』のテーマに 写真画像
- ◆もしもアドルフ・ヒトラーが美術学校に合格し、画家になっていたら第二次世界大戦は起きなかったのではないか
◆アドルフ・ヒトラー20世紀最大の悪人・独裁者が率いたナチス・ドイツの人種主義とは?写真画像
アドルフ・ヒトラーというと、誰もが知る歴史上の「独裁者」の1人として、現代でも「20世紀最大の悪人」としてその名が世界中で語り継がれている人物です。
画像:Wikipedia
1889年4月20日-1945年4月30日
・ドイツ国首相
・ドイツ国家元首
・国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)指導者
アドルフ・ヒトラーは1889年にオーストリア=ハンガリー帝国オーバーエスターライヒ州で「オーストリア人」として生まれ、1914年から1918年にかけて繰り広げられた第一次世界大戦以前までは無名の青年に過ぎませんでした。
第一次世界大戦後にバイエルン州において、ナチス指導者(国家社会主義ドイツ労働者党)として反ユダヤ主義を掲げ、アーリア民族を中心に据えた人種主義での政治活動へ動いていきます。
1923年にはアドルフ・ヒトラーはミュンヘン一揆の首謀者となり中央政権転覆を目指し、1932年にドイツ国籍を取得した後、1933年にドイツ国の首相となります。そして僅か1年程度で指導者による一極集中独裁指導体制を築き、世界全体を第二次世界大戦へ導くこととなりました。
◆アドルフ・ヒトラーが行った選民思想による人種主義とホロコースト、ジェノサイドとは?犠牲者の数は?
アドルフ・ヒトラーはユダヤ系だけでなく、ファシズムに影響された選民思想(ナチズム)により、アーリア人の血統を汚すとされた有色人種とドイツ国民の接触を断つため「生きるに値しない命」というフレーズと共に、「健康な純粋アーリア人」を脅かすと見なされた者たちを「哀れみや慈悲をかけずに」迫害する政策を推し進めていきます。
ドイツ民族であるとされた者でも、性的少数者、退廃芸術、障害者、ナチ党に従わない政治団体・宗教団体、その他ナチスが反社会的人物と認定した者は民族共同体の血を汚す「種的変質者」であるとして迫害・断種された
引用元:Wikipedia
第二次世界大戦中にはナチス・ドイツは「絶滅収容所」と呼ばれる6つの強制収容所等を設置し、ヨーロッパのユダヤ人とロマ(ジプシー)、ソ連軍捕虜、同性愛者、ポーランド人を対象とした大虐殺ホロコーストを行い、それは民族や人種の存続を破壊しようという計画、ジェノサイドでもありました。
・ヘウムノ強制収容所(約15万2000人)
・ベウジェツ強制収容所(約43万4500人)
・ルブリン強制収容所(約7万8000人)
・ソビボル強制収容所(約16万7000人)
・トレブリンカ強制収容所(少なくとも70万人)
近年の推定では、ナチス・ドイツのホロコーストによる犠牲者数は250万人を超えており、うち8割以上がユダヤ人であったそうで、ここで世界全体の約半分のユダヤ人の命が失われたと言われています。ポーランド系ユダヤ人に至っては約9割の命が立たれたという情報もあります。
◆ナチス・ドイツのユダヤ人迫害について残したアンネ・フランク記録『アンネの日記』
『アンネの日記』で有名なアンネ・フランクもユダヤ系ドイツ人として生まれ、1933年アドルフ・ヒトラーがドイツの首相となった年と翌年1934年にかけてアンネ自身と残りの家族はナチスの迫害から逃れるためにオランダのアムステルダムへ移住しています。
1933年だけで6万3000人あまりのユダヤ系ドイツ人が国外へ亡命したそうです。
第二次世界大戦ではアドルフ・ヒトラー率いるドイツはオランダにも侵攻し、アンネ・フランクの一家は1942年に『アンネの日記』で描かれているような「隠れ家」での生活で身を潜めて暮らしていました。
けれども1944年8月にはその「隠れ家」のユダヤ人8人もナチス親衛隊(SS)に見つかり「有罪宣告を受けたユダヤ人」に分類され、各収容所へ入れられてしまいます。隠れ家の住人で戦後生き延びたのはアンネ・フランクの父親であるオットー・フランクのみでした。
アンネ・フランクは最期に餓死者と病死者が続出するベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移され、チフスに罹って命を落としています。
◆若い頃のアドルフ・ヒトラーは出自と学業・女性へのコンプレックスを抱えていたらしい。写真画像
アドルフ・ヒトラーは自身の出生について多く語ることはなく、詮索されることについても非常に嫌がったという話があります。
元々、アドルフ・ヒトラーの実父のアロイス・ヒトラーという人物の出自が複雑であり、未婚女性の私生児として生まれており、その後継父、継父の弟(義叔父)の元へ引き取られて育っています。
◆アドルフ・ヒトラーの父親・アロイス・ヒトラーは靴職人から税関上級事務次官へ上り詰めた権威主義的な趣向で母親・クララ・ペルツルは3人目の妻だった
私が今回調べていく上で強く感じたことはアドルフ・ヒトラーにとって実父のアロイス・ヒトラーという人物が与えた影響がとても大きいという事です。
アロイス・ヒトラー
ヒトラーの自尊心を
壊滅的にえぐった父親。
ウィーンで靴職人の修行の為、下層労働者として働いていたアドルフ・ヒトラーの父親・アロイス・ヒトラーでしたが上昇志向が強く、19歳で税務署の採用試験に合格し公務員となります。その後、無学歴としては異例の昇格を遂げ、最後には税関上級事務次官として公立学校の校長職よりも高い給与を勝ち取ったことを自尊心にしている権威主義的な考え方をする人物でした。
また、生涯で3人の妻と結婚し、アドルフ・ヒトラーは父親の3人目の妻・クララ・ペルツルの4男として誕生しています。父親は生涯で多くの女性と関係があり、召使を愛人としてその後に結婚するという形で2度結婚をしています。従って、アドルフ・ヒトラーが誕生した時には既に3人の異母兄弟と3人の同母の兄弟が先に居たようです。
クララ・ペルツル
アドルフ・ヒトラーの母親であるクララ・ペルツルも元召使としてヒトラー家に入り、そして法的には父親の従姪とされていますが場合によっては父親の姪かもしれないという近親の女性でもありました。
権威主義的で家父長主義的だった父親・アロイス・ヒトラーの影響と再婚し継母となったのクララ・ペルツル存在やアドルフ・ヒトラー等異母兄弟の影響もあって、異母兄のアロイス2世は僅か14歳で家を出ていきます。
そして、アドルフ・ヒトラーと母親を同じくする先に生まれた3人の兄姉、そして弟までも亡くなったことで実質唯一の後継ぎとなったアドルフ・ヒトラーに対し、父親・アロイス・ヒトラーは鞭を使った折檻などを行って反抗的な息子を強力に支配します。
自分の誇りである税関事務官を目指すよう指南しますが、強烈な精神的支配はアドルフ・ヒトラーにとっては父親に対する憎悪を増長しただけで失敗に終わります。
父親・アロイス・ヒトラーはアドルフ・ヒトラーが14歳の時に病没しています。
◆父親の権威主義で若い頃から自尊心が低かったアドルフ・ヒトラーは自分が支配できる女性を望み、シェパードのブロンディを飼う愛犬家だった
アドルフ・ヒトラーは中等学校を2度も留年し、授業にもついて行けず問題行動も続いたことで退校しているため、学歴としては小学校課程を卒業しただけという権威主義的な父親の理想を叶えるには程遠い息子でした。
どうがんばっても父親から決して認めて貰えることのない、自尊心の低い青年時代だったと言えそうです。
親というものは
最も壊滅的に
子供の翼を折る力を持っている。
アドルフ・ヒトラーには女性に対しても結局、いろいろな話はあるものの、確実に恋人関係にあったとされるのは最期を共にしたエヴァ・ブラウンのみで、
女性に対して非常に紳士的だったという話が一部である一方、その最期の恋人であるエヴァ・ブラウンの前で語ったとされる言葉を見ると、女性に対するコンプレックスが強くあった事を感じさせます。
インテリは単純な愚かな女をめとるほうがいい。
引用元:wikipedia
女性恐怖症という事ではなく、私生活上は好んで女性とも会話していたと言われていますが、元々実の父親に踏みにじられた自尊心をこれ以上の危険にさらすことが無いようにアドルフ・ヒトラーは自分が容易に支配できる女性を望んだと言えそうです。
アドルフ・ヒトラーはまた、「支配されること」や「主人を望む」従順な動物である「犬」を愛し、可愛がったのも同様の理由だと言えそうです。
犬は忠実で主を最後まで裏切らない。
引用元:wikipedia
アドルフ・ヒトラーはシェパードの愛犬「ブロンディ」やその子犬を死の直前まで傍で飼って可愛がったとされていましたが、自身の最期の為に用意された薬物の効能を先に調べるために愛犬が使われたという残酷な話もあります。
調べていくと、シェパードを作出したシュテファニッツ大尉のこともアドルフ・ヒトラー率いるナチスは迫害していたことになっていたようです。
このような飼い主を「愛犬家」と言っていいのか戸惑いますが、少なくとも人間に対するよりはアドルフ・ヒトラーが心を開いていた生き物だったと言えそうです。
◆若い頃のアドルフ・ヒトラーは画家を志し美術大学を目指すも美大受験に絵で二度失敗 写真画像
ナチス・ドイツの指導者としての名前があまりにも有名なアドルフ・ヒトラーですが、父の死後、その遺族年金の一部を母親クララ・ペルツルから援助され、ウィーン美術アカデミーを2度受験しています。
政治家を志す以前に画家を目指していたという意外な経歴を持っています。
◆若い頃のアドルフ・ヒトラーが美術学校を受験し画家を志した頃にウィーンで名声を手にしていたのがグスタフ・クリムト
私はまだ訪れた事がないのですが、ウィーンの街並みを見るために旧市街を囲む「リング通り」という環状道路を一周するとハプスブルク帝国期に建てられた建築物を多く見ることができるそうです。
画像:朝日新聞日曜版『世界名画の旅 4』
歌劇場、ウィーン大学、市庁舎、ブルク劇場、国会議事堂、王宮、自然史博物館、美術史美術館など、ウィーンを代表する建造物はその殆どが1857年に皇帝の主唱で建設が始まった「リング通り」沿線にあると言われています。
この頃、ウィーンは600年以上に及ぶ帝国統治の最後の頂点にあり、その繁栄を担う芸術家として、画家・グスタフ・クリムトが若くして成功を収めていました。
グスタフ・クリムトは次々に建築される「リング通り」沿いの建造物の天井画や装飾絵画を手掛け煌びやかなリングの内側の世界で名声を得ていました。
この頃のウィーンはその後の崩壊を目前に民族主義が噴き上がり、リングの内側で華やかな舞踏会が行われている一方で、リングの外側では貧民が溢れ、売春がはびこるような格差の対比が著しい二重構造となっていたようです。
グスタフ・クリムト
なぜ「官能」を描くクリムトの絵が、世紀末のウィーンでもてはやされたのか、ということについて、アルベルティーナ美術館の館長をしていたワルター・コシャッキー氏はこのように語っていたそうです。
「リング建設期は、日本で言えば江戸時代にあたるのです。社会が安定し、文化が熟する。芸術はその時、自由への憧れをエロチシズムに託して表現する。浮世絵がそのよい例です。クリムトが日本の春画の収集をしていたのはご存知ですね。」
引用元:朝日新聞日曜版『世界名画の旅 4』
リングの外側で売春が生きる糧としてはびこる中、リングの内側の上流階級においては性が価値観として禁忌だったそうです。この性の二重基準に注目し、「抑圧された性が人間心理にどう影響するか」という精神分析の研究をした人物もまた、このリングの近郊で生きていました。ジークムント・シュローモ・フロイトです。
フロイト
余談ですが、フロイトも後年アドルフ・ヒトラーが政治を握る1932年にはナチスドイツによって精神分析の分野を一掃されロンドンへ移る運命をたどります。
しかしそれよりもずっと前、クリムトがリングの内側で華麗な絵を描いて活躍していた頃、別の運命の可能性を握る出来事が動いていました。画家を目指す二人の若い青年がリングの外側に住み、ウィーンの退廃を見ながらほぼ同時期にウィーン美術アカデミーを受験することになります。
その一人がクリムトの弟子として活躍することになったエゴン・シーレ、もう一人がアドルフ・ヒトラーでした。
◆若い頃のアドルフ・ヒトラーと同時期に絵画、芸術を志し、ウィーン美術アカデミーを受験した画家にエゴン・シーレがいた。もしも二人が出会っていたら 自伝書『我が闘争』
ヒトラーの自伝書『我が闘争』によると、1907年、1908年の二度に渡りアドルフ・ヒトラーはウィーン美術アカデミーを受験しますが不合格となり夢破れる姿が描かれているそうです。(※最初の受験を1906年とする情報もあり)
画像:『我が論争』
自伝書『我が闘争』第1巻にはこのウィーン時代がアドルフ・ヒトラーを反ユダヤ主義・軍国主義とさせた時期として描かれているようです。
全体としてヒトラー自身の幼年期と反ユダヤ主義および軍国主義的となったウィーン時代が詳細に記述されている。
引用元:『我が論争』wiki
同時期となる1906年にはアドルフ・ヒトラーよりも1歳年下で後に画家としてもその名を残した人物・エゴン・シーレがウィーン美術アカデミーの試験に工芸学校を卒業後の16歳で見事合格を果たしています。
エゴン・シーレ
クリムトがウィーンのリングの内側で煌びやかで装飾的な絵画を描いていたのとは対照的に、エゴン・シーレが描いた絵画はウィーンのもう一つの顔であるリングの外側であり、
虚飾や装飾を全てはぎ取った時に残る、リングの外側の人々の荒廃と闇、労働地区に住む貧しい子供や浮浪者などをモデルとしたむき出しの人間たちの生でした。
エゴンシーレ「死と乙女」
このような強烈な感受性と才能をもつ人物であったエゴン・シーレとアドルフ・ヒトラーが、もしウィーン美術アカデミーで出会っていたら、影響がないわけがなく、アドルフ・ヒトラーは政治家ではなく画家としての道を突き進んでいたのかもしれないと感じます。
ウィーン美術アカデミーでなくとも、アドルフ・ヒトラーとエゴン・シーレはウィーンのリングの外側でそれぞれ転居し続け、1908年の時には僅か300メートルの距離の所に同時に住んでいた事があったようです。
画像:アドルフ・ヒトラー「Colored House」
実際、ウィーン美術アカデミーで一緒に絵を学ぶことのなかったアドルフ・ヒトラーでしたが、ウィーン美術アカデミーが自分ではなくエゴン・シーレらを迎え入れたことは認識していたようで、
後年までそのことに対する恨みつらみの感情を抱き、ナチス総統として支配力を持ってからは、彼らの作品やアカデミーを「退廃芸術」として徹底的に糾弾することになります。
芸術に限らず、ヒトラーは自らを認めなかった「硬直的な正規教育課程」を憎み、晩年まで憎悪を口にしていた。
引用元:wikipedeia
才能の有無ではなく、アドルフ・ヒトラーのような人にこそ「美術教育」という救いの場が必要だったはずだと個人的には感じずにはいられません。
尋常でない葛藤と負のエネルギーが内面にあることは明確で、それは歴史に名を刻むような名作を生みだした可能性もあったのかもしれないとも考えられます。
◆若い頃のアドルフ・ヒトラーの絵画が残っている!海外批評、評価は?教授からは建築家を勧められていた。
若い頃に画家を志したというアドルフ・ヒトラーが描いた絵は現代でも残っています。その画風はこのように評価されています。
アドルフ・ヒトラー「ウィーン国立歌劇場」(1912年)
ヒトラーが描く建築物は、綿密に計算されたかのように表現されている。しかし、彼の作風そのものは先行する作家から影響を受けてそれを深めたというよりも、19世紀やそれ以前の巨匠の模倣に終始している。
引用元:wikipedeia
また、アドルフ・ヒトラーが興味を一心に注ぐのは常に建造物であり、周辺の「生きた」樹木や人間には殆ど興味がないことが絵画を見るとよく伝わってくるようです。
アドルフ・ヒトラー『ミュンヘンのアルター・ホープ中庭』
最初の美術学校の受験の際にも提出物である人物の頭部のデッサンポートフォリオが極端に少なかったあるいは未提出ということが指摘されています。
◆若い頃のアドルフ・ヒトラーの美術品絵画の一部が2009年オークションで競売売却され、その中に自画像もあった
2009年4月にはイギリス西部のラドローでアドルフ・ヒトラーが1908年から1914年に描いたとされる水彩画13点がオークションにかけられ、総額9万5589ポンド(約1400万円)で落札されるということがありました。
画像:https://www.afpbb.com
絵画作品のほとんどは風景画でしたが、1点だけ男性が石橋の上に座っている風景を引いたアングルで描いたものがあり、それがアドルフ・ヒトラーの「自画像」だと言われているようです。
その他にも、ジョン・ガンサーは、ウィーン美術アカデミーが所有するヒトラー作品を鑑賞したあと、このような言葉を残しています。
どれも単調で、リズムも精彩も感情も、物質世界を越える想像力もない。ただの建築家のスケッチだ。骨を折りながらも正確な図面を描いている。それ以上ではない。ウィーンの教授陣が建築学校にいけ、ファインアートは見込みがないから諦めろといったのも不思議はない。
引用元:wikipedeia
色々とアドルフ・ヒトラーの描いた絵画作品やデッサンを見てみたところ、私の主観で最も生き生きと描かれていると思われたものはこちら(美術作品という視点でなく生き生き基準)
画像:http://gabareki.blog.jp/archives/21271516.html
やっぱ、犬は好きっぽい(笑)
また、後に糾弾したパブロ・ピカソやアンリ・マティスのようなラインの作品も見つけました。
画像:www.thepaganfront.com/
これももしかしたら自画像かも(?)しれません。しかし、これらはヒトラーの作品の中でも稀で、ほとんどの作品は多くの評価のままの印象を与えます。つまりアドルフ・ヒトラーの描く「生物」に生命力の要素は乏しく、圧倒的に人間的な情感(興味)というものが意図的ではなく最初から「無い」という事です。
アドルフ・ヒトラーの構想段階で既に排除されている印象がします。
◆若い頃のアドルフ・ヒトラーはウィーン美術アカデミーを2度落ちた後に建築家を目指すが、そちらもあえなく挫折 画像
そういうわけで、アドルフ・ヒトラーは残念ながら2度の美術学校受験に失敗しましたが、なぜ自分がウィーン美術アカデミーに入れないのかとても納得できなかったようで、わざわざ学長へ直談判をしに行くということをしています。
ウィーン美術アカデミー
アカデミー受験に失敗した時に学長に直談判した際には、人物デッサンを嫌う傾向から「画家は諦めて建築家を目指してはどうか」と助言された
引用元:wikipedeia
この助言に大いに乗り気になった
ヒトラーでしたが・・・。
美術大学の教授からは総じて芸術絵画ではなく建築学科を勧められ、一旦はアドルフ・ヒトラーもその意見に乗り気だったようでした。
けれども建築学科のある学校を目指すには以前、父親に反抗してドロップアウトした中等学校からやり直さなければ入学できない事が分かり、断念したという経緯があったようです。ヒトラーの自伝書『我が闘争』にはこのような記述があります。
…画家から建築家へ望みを変えてから、程なく私にとってそれが困難であることに気が付いた。私が腹いせで退学した実科学校は卒業すべき所だった。建築アカデミーへ進むにはまず建築学校で学ばねばならなかったし、そもそも建築アカデミーは中等教育を終えていなければ入校できなかった。どれも持たなかった私の芸術的な野心は、脆くも潰えてしまったのだ…
引用元:『我が闘争』
憎い父親を絡めた
挫折を何度も繰り返すヒトラー。
その後に建築家となる夢も断たれ、1909年(年齢20歳)の時には住所不定の浮浪者として逮捕され浮浪者収容所に入るまでの状況となります。
これは経済的なことというよりも、美術学校受験に失敗したことを知られたくなかった為と、20歳から始まる徴兵義務から逃れるためだったと言われています。
経済的にはアドルフ・ヒトラーは自作の絵葉書や風景が、版画の模写で作品をつくり、インテリ層や富裕層に絵画を売っていた時期があったようです。
ヒトラー自身も『我が闘争』の中で「ささやかな素描家兼水彩画家として独立した生活を送っていた」と記述
引用元:wikipedia
オーストリアの商売人であったサミュエル・モルゲンシュテルンという人物がアドルフ・ヒトラーのビジネスパートナーとなり、作品を多く購入し、常連客へ売ったそうで、その名簿が後にヒトラー作品を購入した人々を示す材料となりました。また、買い手の多くはユダヤ人だったと言われています。
◆アドルフ・ヒトラー率いるナチスによって奪われた美術品「退廃芸術絵画」が2018年映画『ヒトラーVSピカソ』のテーマに 写真画像
2018年、アドルフ・ヒトラーが弾圧した芸術家やその美術作品についての歴史が映画として公開され話題となりました。
この映画の内容を把握するのには、アドルフ・ヒトラーがドイツにおいて国家権力を握った後、芸術に対してどのような事をしたのかを知っていないと理解が難しい映画だったようです。
◆アドルフ・ヒトラー『大ドイツ芸術展』とナチス略奪美術品が並ぶ『退廃芸術展』の開催
アドルフ・ヒトラーが作品を残したのは1914年25歳の頃が最後だったようですが、1939年に第二次世界大戦が勃発する直前頃までは自分は「芸術家」であるという意識があったと思われる発言をしています。
私は政治家ではなく芸術家だ。ポーランドの問題が片付いたら、芸術家として人生を全うしたいものだ。
引用元:wikipedia
けれども、アドルフ・ヒトラーがその発言までの段階で文学、美術、芸術に対して犯したことは、とてもとても芸術家だったとは言えない芸術に対するジェノサイドでもありました。
1933年に政権を獲得したナチスは芸術アカデミーの文学部門からまず反ナチ的な小説家・詩人といった人々を追放し「非ドイツ的著作物の焚刑」の名でドイツ各地でその文学作品を焼き上げる焚書を行いました。
その後、このような弾圧と破壊への動きは美術の世界へも広がります。
1933年5月30日ベルリンでの焚書
1937年になるとドイツ民族の芸術(望ましい作品)を国家公認として一堂に集めたミュンヘンの『大ドイツ芸術展』と同時に、退廃美術を誹謗する展覧会として『退廃芸術展』が行われました。
「表現主義はユダヤの発明であり、党員はこれらの展覧会を必ず見るように」という指示を各地に下した。
引用元:wikipedia
国家公認になる芸術 VS 破壊される運命の芸術
表現主義や前衛的な芸術は「国家の敵」であり「ドイツ民族の脅威」としてみなされ、同時に退廃芸術家という烙印を押された者は追放されることとなりました。
近代芸術は脳の病気とされた。
フランツ・マルク『鳥』
かつて、ウィーンで華々しく活躍していたクリムトやシーレといったアドルフ・ヒトラーとすれ違うような経歴をもった人々の絵も『退廃芸術展』には並びました。
ナチスは「退廃芸術」と定義づけることで、「悪しき芸術」としての見せしめを行ったのです。作中でも言及されていますが、「退廃芸術展」は展示方法も粗雑で、美術品を醜く、嘲笑すべき対象として見せるように企図されていました。
引用元:http://cinefil.tokyo/_ct/17265559
とても美術や芸術を愛し、画家を志してきた人間とは思えない発想です。
表情や身体が歪んだ肖像画が例示しているように、20世紀前半のモダンアートには人間の最も暗い部分を描いた作品が数多くあります。「大ドイツ芸術展」との対比のなかで、そのような人間性の歪さや矛盾を描いた作品はナチスの欲する「正しい芸術」ではないという意図のもとに展示されたわけです。
引用元:cinefil.tokyo/_ct/17265559
『退廃芸術展』開催の為にドイツ各地の20か所以上(32か所という話がある)の美術館から「預かった」それらの退廃美術品は17000点(絵画5000点、版画12000点)にのぼりました。
退廃芸術家の烙印を押された芸術家はドイツ人だけでなく、フランス人、オーストリア人、ポーランド人、ロシア人、スイス人、ノルウェー人と糾弾の対象はドイツを超え、ヨーロッパ全土に及びました。
個人所有のものを合わせると、ナチスによって略奪された美術品数は60万点とも言われています。現在でもそのうち10万点の行方が分かっていません。
1938年には正式に国家が没収し、処分できる法律の公布がされています。アドルフ・ヒトラーが「私は政治家ではなく芸術家だ。」と語っていた時期がこの頃と重なるわけで、とても芸術家とは思えない行動と発言の乖離に驚くばかりです。
権力は芸術をも支配できる
という 浅はかな盲信。
アドルフ・ヒトラーが考えていたことの中には、自分の美術の能力を決して認めなかった者たちへの憎しみ、それらを自分が圧倒的支配力で潰すという事ではなかったかと感じずにはいられません。
自身の父親に対して抱いていた劣等感からの負の感情と全く同じこと、つまり幼少期からの自尊心の希薄さがもたらした惨劇がここで形を変えて起こっているということが分かります。
誰も知らないヒトラーによる闇の美術史
退廃芸術弾圧の代償はあまりにも大きく、ドイツにとっては中世から近代までの多くの美術作品や歴史的建築などが永久に失われることとなり、「ドイツは芸術を破壊した国家」という汚名をかぶることとなります。
画像:パブロ・ピカソ『酒を飲みながらいねむりをする女性』
その後、作品はナチスの高官たちが自身の美術品収集のためにゴッホ、セザンヌ、ムンクなどの作品を持ち帰ったり、残りの作品のうち売れるものは売り払われて軍備費用の為の外貨取得として画商に売却が委ねられたようです。
芸術作品を政治利用し
武器と交換したナチス
しかしそれも、ドイツ国内で危険視されている作品ということで当時は売買も困難を極めたようです。
この時売られた作品は、各国のコレクターが出所を言えない物として秘蔵しているとされ、各国の美術館に流れ着いて公開されている作品以外の所在は分からないままである。
引用元:退廃芸術
残った膨大な数の作品は「見せしめのために国民の前で盛大に焼き払う」という案により、少なくない数の作品がベルリン消防署の庭で焼き払われることとなりました。
その前に大半の作品はベルリン郊外のニーダーシェーンハウゼン城へ移され、避難させたと言われており、それらの作品もまたその後、売買され、1939年6月のスイスで行われたオークションにおいてヨーロッパの美術館やアメリカの個人コレクターへ売却されました。(3000点以上が売却)
画像:エゴン・シーレ『ヴァリーの肖像』
その他の残った作品は、空襲が激化する1943年にベルリン宣伝省地下に移送されたことで、その後の空襲やベルリン市街戦で破壊されたものが多かったのではないかと考えられています。
ベルリンを占領した赤軍は、退廃芸術展に展示されていた作品多数が地下に埋められていたのを発見し、これを持ち去った。この内のいくつかが現在『出所不明』とされた上でエルミタージュ美術館に展示されているが、ベルリンから持ち去られたうち何割がこうして展示されているかは不明である。これらの作品がどのように生き残ったかについても、確認できる文書資料はない。
引用元:退廃芸術
現在でも、ナチスが略奪した作品の元所有者と略奪後に購入した者、あるいはその承継人など現在の所有者との間で美術品をめぐり、「盗品の返却」へ向けた努力が行われているようです。現在の所有者が美術館であってもなかなか話し合いはスムーズにいかないようです。
◆アドルフ・ヒトラーに退廃芸術家とされたパブロ・ピカソの筆での反撃「絵とは?描くこととは?」
1939年、スペイン内戦中にスペインの画家パブロ・ピカソはドイツ空軍のコンドル軍団によってゲルニカという都市が受けた無差別爆撃(ゲルニカ爆撃)を主題とした絵画と壁画を生み出しています。
爆撃後のゲルニカ
その名も
20世紀を代表する名画として残った
『ゲルニカ』
当時、退廃芸術家とみなされた表現主義などの前衛的な芸術家のその後は大変厳しいものとなっていました。
ドイツ国家から「国家の敵」とみなされた芸術家たちは信用を失墜し、国内では大学の職を失ったり、全国造形美術院から除名通知が来たり、以後の芸術活動を一切禁止され画材購入も監視されることで作品制作の継続自体が困難となっていました。従って、ドイツ国外へ逃亡する芸術家が多数出ていたようです。
ワシリー・カンディンスキーなどはバウハウスで教官を務めていましたが、1933年にバウハウスがナチスドイツによって閉鎖され、1941年にナチスがフランスを占領下におくと、作品の展示や彼について論じることも禁止され不遇のまま亡くなりました。
ドイツに踏みとどまったユダヤ人系の作家はのちに冒頭、アンネ・フランク一家の家族の話と同様に強制収容所に送られることとなりました。
そんな中、継続して絵を描くことで闘い続けたのがパブロ・ピカソでした。画家は、筆で闘い続ける、という事だったのかもしれません。
絵は盾にも矛にもなる
戦うための手段だ
―パブロ・ピカソ
アドルフ・ヒトラー率いるナチスドイツが1937年に開催した「大ドイツ芸術展」「退廃芸術展」との対比で示した
「あるべき姿の芸術」と「忌むべき芸術」といった恣意的なコントラストは、芸術や思想においてもドイツ国民は国や共同体の考えに準じる感性、価値観であるべきだという事を明確にしたものでもありました。
画像:『すくすくレコードブック』
『不思議の国のアリス』の話ではありませんが「女王様がバラは青いと言ったら国中のバラは青色をしていなければならない」というのと一緒で、とてつもなく馬鹿馬鹿しい意味のない支配が現実として行われていたのです。
それも、全てはアドルフ・ヒトラーがただただ自尊心が低く「臆病だったから」と言えそうです。
◆もしもアドルフ・ヒトラーが美術学校に合格し、画家になっていたら第二次世界大戦は起きなかったのではないか
もしも、アドルフ・ヒトラーがウィーン美術アカデミーの入学試験に合格し、エゴン・シーレとも出逢い、同じ空間で制作していたら、もしもアドルフ・ヒトラーが画家へ進む道を断たれなかったら、
第二次世界大戦は
起こらなかったのではないか。
歴史に「たられば」は無意味ということはよく言われる事ですが、この件に関する「もしも」はそれでも頻繁に想像され語られてきていることでもあります。
アドルフ・ヒトラーが弾圧を与えた「退廃芸術」は人間や社会の暗部にスポットを当て、そうした受け入れがたいものと対峙し、画家として描くものであっただけに
むしろ、負の内面感情が強いアドルフ・ヒトラーにとっても、きちんと学ぶことさえできれば、どちらかというと精神性に共感を覚えるアプローチが多かったのではないかと思います。
それらを「国民が鑑賞すべきでないモラルを欠いた悪影響のもの」と定義したのは、ひとえにアドルフ・ヒトラーが「つくり手」として目線が未熟であり洗練されていなかったからとも言えます。
ちかくにリングの外側の住人を描くエゴン・シーレという人物がいてアドルフ・ヒトラーへ影響を及ぼしたとしたら、結果は違っていたのかもしれないという可能性については私も思うところです。
エゴン・シーレやクリムトとの接点を考えると、彼らに関しては退廃芸術の烙印を後に押されたとはいえ、アドルフ・ヒトラーが権力を握るずっと前である1918年に二人とも亡くなっていますから、弾圧時に直接の交流はなく、エゴン・シーレがウィーン美術アカデミーの学生だった頃に出会うしか運命はなかったように思えます。
画像:エゴン・シーレ「自画像」
アドルフ・ヒトラーが権力を握り、『退廃芸術展』を開いたころに存在していたのはシーレの妹の夫(画家)とその息子(画家・アントン・ペシュカ)だったようです。シーレの妹の夫はクリムトやエゴン・シーレと共に作品をその展覧会に並べられていたようでアントン・ペシュカ氏はその展覧会に父と共に足を運んでいます。
でも人々は、絵をあざけるためにそこに居たんじゃない。古き良きウィーンに別れを告げに来たのです。破壊に備えて、ひそかに絵の写真を撮るのが精一杯でした。
引用元:『世界名画の旅 4』
自身を「芸術家」としていたアドルフ・ヒトラーに対し、筆とキャンパスで闘うことを選び、絵を描くことを続けたパブロ・ピカソはこのように「画家」というものについても語っています。
―パブロ・ピカソ
芸術家や画家を糾弾していったアドルフ・ヒトラーは結局、彼らの闘う筆、闘う作品によって糾弾されてしまったと言えそうです。
一方戦後、アムステルダムの「隠れ家」生活の唯一の生存者となったアンネ・フランクの父親・オットー・フランクも「隠れ家」生活を支えていた人物から娘のアンネが隠れ家生活で書いていた日記を受け取ります。
父親は娘のアンネ・フランクの残した「戦争と差別のない世界になって欲しい」という想いを世界中に届けるため『アンネの日記』を出版しています。アンネ・フランクの命はナチスドイツの政策によって奪われてしまいましたが、アンネの残した日記は時代や国境を越えて未だに世界中の人々から支持されるベストセラーとなって生き続けています。
私がとても心に残っているのは、アンネ・フランクがユダヤ人として、いつ強制収容所行きになるかも分からない失望と恐怖の「隠れ家」生活においてさえ、それでも明るく前向きに周りへ振る舞って暮らし、日記へ綴った一言です。
— 1944年7月15日 アンネ・フランク
たった14歳の少女が
遺したことばです。
同じ人間として生まれて、どんな境遇に置かれても祈りを忘れずに希望を抱ける人間になるか、自尊心の低さから他者を支配してもなお、恐怖から逃れられない人間になるかという対極的な人生観と結果を今回は見ることとなりました。
人間の強さや幸福力は、自身の内側とどれだけ向き合いその弱さと闘ってきたか、またその闘いが過酷であればあるほど、同じように戦っている者たちへの慈愛の心が沸いてくるというところで、大きく変わるのかもしれません。
皮肉なことにそのアプローチはアドルフ・ヒトラーが弾圧した芸術美術への歩みと一致する意味で、彼に「もしも」を達成する可能性はやはりなかったとも言えるのかもしれません。
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